今週の説教要旨

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2016年3月27日                         イースター礼拝    榎本栄次牧師訣別礼拝

「 一匹の羊 」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書   15章1-7節


 イースターおめでとうございます。イエス様は「狭い戸口から入るように努めなさい」(ルカ13:13)と言われました。主の御復活はまさに「狭い戸口」と言えるでしょう。私たちにとって幸せと思えることはすべて広い戸口です。成功であり、人から褒められることであり、健康であり、多いことであり、義人であり、命であり、祝福です。だれでもそこから入ることを望み、そのために努め競います。それに対して「狭い戸口」とは、失敗であり、人から馬鹿にされることであり、病気であり、少数者であり、罪人であり、死であり、呪いです。そしてその狭い戸口にこそ神との出会いの場が用意されているのです。またイエス様は「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14:26)と言われました。「拾い戸口」からは神の国には入れないということでしょう。死からの復活こそ神の国です。
 今日のテキストでは、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた」とあります。ここに名付けられている「徴税人や罪人」とは、ユダヤの律法社会でのアウトカーストで、この人たちは、アム・ハ・アレツ(土民)と呼ばれていました。彼らはユダヤ社会からはじき出され、一般的市民権を奪われた人たちでした。「貪欲な者、不正な者、姦淫をする者」(ルカ18:11)と同列におかれている人たちです。こういう人たちが「皆」イエスのところに来たというところに重要な強調点があります。
 この様な人たちと対局にいる「ファリサイ派(敬虔な民)の人々や律法学者たち」はイエスのことを「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出しました。ルカ5章30節にはイエスの弟子たちに「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」とつぶやいたのでした。ここに来て、イエスに直接難癖をつけたのです。非難点ははっきりしています。迎えてはならない人たちを招き、食事まで一緒にしている。そのことによりイスラエルの聖なる食卓を汚したことに対する不平と抗議を申し出たのです。
 私たちには、ファリサイ派の人々の抗議は「なんと心の狭いことよ」と思われますが、しかしこれが本音ではないでしょうか。自分たちは「立派で、いい人の集まり」と考えないでしょうか。それが自然です。しかし、神の国は私たちの好きな「広い戸口」からは入れないようです。(裏面「校長の祈り」参照)
 そこで主イエスは、99匹の羊と迷い出た1匹の羊たとえを話されました。この話は、後に続く「無くした銀貨」の話と「放蕩息子」のたとえと同じ趣旨を持つものです。すなわち大きな喜びは「失われたものが見つかったこと」にあるということです。
 マタイ18章10-14節によれば、このたとえの前に「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」(マタイ18:10)と言われました。ここで「気をつけなさい」はかわいそうだからではありません。そこに最も大切なものがあるからです。「言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。そこに行けば天使に会えるということです。そして100匹の羊の話に続きます。迷い出た一匹を探すことは天使を探すことです。だから「気をつけなさい」なのです。わがままで迷い出た一匹よりも99匹の方が大切ではないか。あれがいなくなれば助かるというかも知れません。また、銀貨一枚ぐらいでどうしてそんなに喜ぶのか。真面目に働いていた兄よりも放蕩してぼろぼろになって帰ってきた弟の方がどうして大切にされるのか疑問がわきます。つぶやき子、抗議したくなります。どうして悲しんでいる人が幸いなのでしょうか。悲しむことがいいのではありません。そこでキリストに会えるからいいのです。神の国はそこから入るのです。
 神の国は私たちの幸せの延長線上にはありません。私たちが見落としている「小さい羊」「狭い戸口」そこに信仰の入り口があるのです。気をつけましょう。
7年間ありがとうございました。

      校長の祈り (敬和学園在職時 真夜中の祈り)
受験の前日/ 私の心はしばらく暗くなった
年々、重い課題をかかえた子どもが多くなる
どうしてだろう/ 中学校は敬和学園のことをどう考えているのだろうか
はきだめか/ 泥池のように思っているのではなかろうか
困った子は敬和にやればいいと思っているのだろうか
神さま、どうしてですか/ 私たちが真面目に取り組めば取り組むほど
課題を持った子が増えるのは/
何の問題もない/ 優秀な子が来て欲しいです/ 私たちには重荷すぎます/
どうすればいいのですか/この子たちの前でたじろいでしまいます/
主が言われる/ なんの問題もない学校がいい学校か/ 
重い課題を必至になってかかえている学校は悪い学校か/  お前たちの学校は誰が立てたのか/ お前たちの学校は誰のための学校か/ お前たちの名誉のためか/ お前たちの生活のためか/お前たちの学校の校門に何とかいてあるのか 
    明日  はきだめにえんどう豆咲き/ 泥池から蓮の花が咲く/
    人皆に美しき種子あり/ 明日何が咲くか  安積得也   
お前は誰をゴミと呼ぶのか/ どこを泥池と言うか/ はきだめがだめなのか/ 泥池のどこがいけないのか/ そこにえんどう豆咲き/そこに蓮の花が咲いているではないか/
あの石碑はただの飾り物か/ 敬和学園を探して来た子どもたち/ かけがえのない私の子ども/神の似姿を宿した/ 尊い私の子どもたちなのだ/ 彼らが私のところに来るのを妨げてはならない/お前はキリストに何を求めているのだ/ お前はいつからそんなに偉くなったのか/
いつからそんなに立派になったのか/ お前はいつからキリストを必要としなくなったのか/ 人が戦火で叫んでいるとき/ 私だけが苦しまなくて済むようにと祈るのか/ 人が不登校で泣いているのを見て/ 私の学校にはそのような子がいませんようにと祈るのか/ 人が倒産して家を失っているのに/ 私は繁盛して楽ができますようにと祈るのか/ 人がノイローゼで苦しんでいるとき/ 私には心の平安をと祈るのか/ 人が家庭崩壊しているとき/ 私の家は平和な喜びに満たされますようにと祈るのか/
 ああ、人が泣き悲しんでいるとき/ どうして私だけが喜んでいられよう/ 
ああ、人が傷つき倒れているとき/ どうして何もせずに傍を通り過ぎられよう/
ああ、人が借金に追われ、一家心中しようとしているとき/ どうして私だけ豊かな食卓を囲んでいられよう/
ああ、キリストが十字架に架けられているとき/ どうして私だけが人々から尊敬されることを望んでいられよう/
神よ/ 今、私たちに任せられたこの子たちを/ 神の選ばれた子として/ 受け入れさせてください/この子たちと共に/ あなたの御国を望みます/
私たちの自己満足のための学校になることではなく/ 今の日本に必要な学校にしてください/ そのために私たちを用いてください 
神の国は私たちの納得のいく/万歳、主よ、勝利、と言って入っていくところではないようです/ あなたの国は/ おびえながら/ 後ずさりしながら/狭い戸口から わが神、わが神/ どうして私たちをお見捨てになったのですか/ と泣きながら入っていくところのようです
神よ/ 私たちをそこへお導き下さい


音声をお聞きいただけます

2016/3/27 一匹の羊  

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。