今週の説教要旨

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2016年3月20日                                      受難節第6主日礼拝

「 自分の十字架を背負って 」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書   14章25-35節

 レント最後の受難週に入りました。イエス・キリストは私たちの罪のために贖いの十字架についてくださいました。それによって私たちは神との和解に入れられ(コリント二,5)この世と自分自身を取り返すことができました。
私たちキリスト者は、この世をどのように理解し、把握するのでしょうか。自分たちの持っているもの、おかれた環境をどう捉えるのでしょうか。それは自分自身をどう受け止めるかということでもあるでしょう。この世は、憎むべき悪の対象でしょうか。それとも「神はこれを見てよしとされた」(創世記1)という善なる存在でしょうか。聖書によれば、この世は神によって造られたものであり、祝福の満ちたもので神との和解の契約者、コスモス(宇宙・秩序あるの意)として造られました。しかし、世は罪を犯すことによって、罪のものとして世は神との断絶状態に入りました。世は憎むべき存在であり、無秩序になり、自分を見失い、神と妥協できないものとなりました。そこにイエス・キリストが来られたのです。「神は独り子をお与えになったほどに、この世を愛された」(ヨハネ3:16)主の十字架の贖いおいてこの世は神との和解に入れられるのです。十字架はきれいなものではなく、罪と血に汚れています。
 本日のテキストによれば、主イエスのところに集まった人々に「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26)と言っています。これらは、神との関係が断絶した状態にある世です。父、母、妻、子供、兄弟姉妹、自分の命、これらはすべて愛すべきものばかりです。少なくとも憎む対象ではないでしょう。それらを愛するために、そのために信仰するのではないでしょうか。ところが「これらを憎む者でなければ弟子ではありえない」というのです。イエスは更に「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と言われます。親や子供を憎み、十字架を背負って従えとはなんとひどいことかと思います。だれがそんなことに耐えられるでしょうか。宗教の名による大きな誤解と過ちがここにあります。独善と熱狂主義による誤解です。自分の独善を神とし、それに合わないものを切り捨てる、それを信仰として強制するのです。信仰の名で、子供を死なせたり、家族を崩壊させたりする悲劇は例を挙げればきりがありません。使徒パウロは「わが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(コリント一、13:3)と言っています。これは自然にこの世への愛を勧めているのではなく、キリストの十字架の愛を説いているのです。この世の幸せの延長線上に神の国があるのではなく、そこには十字架という贖いが置かれています。主は「愛するな」といわれたのではなく、「憎め」と言われるのです。罪の状態にある自分を憎むことです。それに依存するなということです。
 若い頃、自分の幸せを神のように仰いでいました。それが叶わないと分かったとき、絶望のどん底に落ち、自分が嫌になりました。すべてを投げ捨てて逃げ出したくなったのです。「もうこの辺で分かれようか」ともうひとりの自分に語りかけていました。「十字架を背負って」ということを立派な信仰の延長線上においていました。「死ぬ気でキリストに従うものでなければ弟子にふさわしくない」と思っていたのです。そんな立派な人には到底なれない。なったふりをしても偽善にすぎません。その時「自分の十字架を背負ってわたしについてきなさい」という言葉が全く違ったところから聞こえてきました。それは慰めに満ちた言葉でした。自分の十字架とは、自分のどろどろした弱さです。罪です。それに目をつむり、どこかに自分をおいてきていました。もうひとりの自分は孤独と弱さに怯えていました。イエス様がそこにいて担ってくださっていたのです。そしてわたしを待っていたのです。

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。