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2016年3月13日 受難節第5主日礼拝
「 神の国の宴会 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 14章15-24節
主イエスがファリサイ派の議員の家に招かれて食事をしているときに、同じように招かれて食事をしていた一人が、イエスの話を聞いて「神の国で食事をする人はなんと幸いなことでしょう」と言いました。う。神の国で食事をすることは最高に名誉なことです。また一緒に食卓を囲むことは、喜びを共に分かち合う祝福の時です。私たちの聖餐式もまた同じ流れをくむ信仰から来ています。主イエスは彼の言葉を受けて、「神の国の大宴会」のたとえを話されました。これは最高級の喜びであり、それへの招待は最高の名誉です。もし、わたしたちが天皇の園遊会に誘われたとしたら、どうするでしょうか。日頃「天皇制反対」などと言っている人も、それらを忘れいそいそと出かけるのではないでしょうか。知人や親戚中に言ってまわり、喜び勇んで参列するに違いありません。その日には一張羅を着て何をおいても出席を優先させるでしょう。
客人は当然のこととして、イエスに同意を求めました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と。主イエスはここでまず、「神の国」のことを「大宴会」にたとえています。神の国の宴会は喜ばしい祝宴です。それは人類にとって最もすばらしいところとされています。そこで行われる宴会こそ大きな喜びです。わたしたちはそこに招かれ、そこに向かうようにつくられています。そして人類ばかりではなく、宇宙全体もそのために動いていると言えるでしょう。宇宙は何も意味なく動いているのではなく、神の国に向かい、そのために造られているのです。その方向は、愛と正義と平和です。そこへとわたしたちも招かれ、生かさすれています。それはすばらしいところであり、だれもがあこがれるところで、そこに招かれることは最高の栄誉です。その宴会は、神だけの祝宴ではなく、神のわたしたちが共に与る喜びです。
宴会の用意が調ったので、主人は僕に招いた人たちを呼びに行かせました。ところが、招かれた人たちは、一様に断り始めます。「畑を勝ったから見に行かねばなりません」「牛を二頭ずつ五組買ったので」「妻を迎えたばかりなので」ともっともな理由を並べて断りました。マタイによる福音書では、この使いの僕を殺してしまったというのです。
どうしてでしょうか。神の国の食事につくことは「幸いなこと」と口では言うのですが、実際になると断り始める。ここにこの世の宴会と神の国の宴会との違いがあります。この世の宴会だと、どんなことがあっても都合をつけて参加するのに、神の国の宴会は断るのです。それは自分の幸せが断絶されるからです。せっかく神様がわたしたちのために用意して下さっている宴席ですが、自分にはその喜びが分からないのです。
こうして「招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」(24)というのです。そして神は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家を一杯にしてくれ」(23)と言われます。わたしたちは、無理矢理連れられていかないと、神の宴席には着けないのです。わたしたちは自分のことを一番よく知っている。自分の幸せつかむのは自分。と思っていますが、そうではない。神様の御心こそが一番なのです。
思い通りにならないことばかり/ 思い通りにならなくてよかった/ 思い通りになっていたら大変だった/神様の御心が一番
2016/3/13 神の国の宴会