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2016年3月6日 受難節第4主日礼拝
「 末席に着け 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 14章7-14節
「わたしたちの本国は天にあり」(フィリピ3:20)と言います。信仰は、処世術でもなければ、道徳でもありません。生きる基本であり、生きる方向です。自分を何処におき、どこに向かうかを自分の基礎にするのです。そこにこそ命の力があります。ここから遠い神の国から今を見、この今の現実から遠くに向かうのです。短い物差しで線を引くとギザギザになります。長い物差しで線を引くとまっすぐに引けます。私たちの目標を自分やその周りに置くのではなく、天の神様におくことによって今の私たちの生活がしっかりします。
ある安息日に、イエスはユダヤ人のエリート、ファリサイ派の議員から食事の招待を受けました。そこに水腫を患う人がいて、イエスがその人をいやされるかどうかを人々はうかがっていたのでした。人々の関心はこの病人がどうなるかではなく、安息日にイエスはこの人をいやされるかどうかに注目しているのです。ユダヤ教の根幹に関わる安息日規定です。「安息日に人をいやすことは正しいことかどうか」という問いをファリサイ人たちにイエス自身が投げかけました。そして、安息日であっても病人をいやすことは、正しいことであり、罪にはならないことをはっきりと主張し、そのようになさったのでした。ここでイエスはひとり病人の側に立ったのです。「彼らはこれに対して答えることができなかった」(14:6)と記されています。イエスの目線は自分の評判や、偉い人たちの評価にはなく、この病に苦しむ一人の貧しい人に注がれました。しかし、人々はこの時からイエスをはなれるのです。
その続きで、食事に招待された客たちが上席を選ぶ様子を見て「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない」「むしろ、末席に行って座りなさい」と戒めています。ここで主イエスは社交界のエチケットを教えているのではありません。また謙遜の美徳を奨励礼讃しているわけでもありません。ましてや、身を低くしている方が結果的には重んじられるだろうといった処世訓を与えているわけでもありません。そのようなことはファリサイ派の人たちの最も得意とするところでしょう。しかし、イエスは弟子たちに「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に気をつけなさい」(マタイ16:5)と言い、そこにある偽善性を明らかにされます。非難されるのは律法学者たちばかりではありません。弟子たちも決して例外ではありません。わたしもそのひとりです。
マルコによる福音書10章13節以下には、ゼベダイの子ヤコブとヨハネとがイエスに願い出て、「栄光をお受けになる時、ひとりをあなたの右に、ひとりをあなたの左に座るようにして下さい」と言いました。それを知った他の弟子たちは二人の抜け駆けを憤慨しています。このような弟子たちに対して主イエスは「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていない」と忠告しています。ここから分かるように、上席を狙っているのは、律法学者たちばかりではないのです。
主イエスは、今や淋しい孤独の場に立たされています。いやされた病人も向こう側で非難し始めるのです。このことこそイエスの末席でした。自ら罪人とされ、「選ばれた人たち」の仲間に入れてもらえない末席に着かれたのです。そのことによりわたしたちはいやされたのです。「末席に着きなさい」と言われたのはそれによって命を得るためです。教会もまた、事業屋や企業の一つになっては命を失います。神の正義を求め、それを追求することでなければなりません。そのためにはいつもいちばん小さなところに立ち、そこから天を見上げる姿勢が求められます。主を見上げる時それが可能になるのです。
2016/3/6 末席に着け