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2016年2月28日 受難節第3主日礼拝
「 弱い立場にある人の側に立つ教会 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 14章1-6節
ある日、主イエスはファリサイ派の議員の家の食事に招待されました。すると人々はイエスのことを「うかがっていた」(1)とあります。何をうかがっていたのでしょうか。少し前の記事を思い出してみましょう。ある安息日における出来事です。(13;10-17)主イエスは会堂で18年間、腰の病に苦しむ婦人をいやしました。その日が安息日であったので、会堂長は怒ってこの婦人を責めたのでした。イエスは彼を「偽善者」と呼び、この病んだ婦人の立場に立ちました。これが牛に水を飲ませたとか、困っている人を助けたというようなことであれば、会堂長も問題にしなかったでしょう。しかし主イエスの業は、だれもが驚くようなことだったから問題にしたのです。彼らにとっては一人の病人がいやされるかどうかというようなことは小さなことでありどうでもいいことでした。彼らにとっては、神聖な律法が犯されるということは、無視できない困ったことだったに違いありません。
今日のテキストの冒頭に「安息日のことだった」(1)とあるように、皆この日にイエスはどんな態度をとるかについて関心があり、それをうかがっていたのでしょう。「ファリサイ派に議員」といえばユダヤ人を代表するエリートです。彼がイエスを食事に招いたということには、安息日に関することで少なからぬ意図を感じます。先の会堂では行きがかり上ついやってしまったけれども、今日はどうだろうか。まさか議員様の家ではあのような不作法はしないだろう、と議員も期待していたかも知れません。
そこに水腫を患っている人がいました。さあイエスはどうするでしょう。ここでのイエスのとる行動がこれからのイエスの活動に大きな影響をもたらすことは必至です。議員の期待通りにしておくことが賢明ということでしょう。ここでイエスは前回と同様、単純な例を引き出します。「あなたがたの中で、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5)と。単純で極端な話をすると本質がはっきりします。多くの場合、単純な真理を複雑にして分からなくしてしまいます。イエスは、教義の複雑さに入り込むのではなく、事実の単純さにつくのです。わたしたちは本質を複雑にして神の言葉を無にしてしまうことが多いです。神学者はそのままでは信仰者にはなれません。それは「うかがっている」だけだからです。イエスは、教義の正しさから事実を見るのではなく、事実に立とうとします。
水腫を患っている人は、この病気にかかったのは自分の責任ではありません。しかしいま何の権利も主張できないところにおかれています。この人から「いやしてください」と願うことさえできないのです。それに比して律法の専門家は常に正しく、強い側に立ち、そこを神の側として人々をそこに連れてこようとします。病人は、ただ憐れみを待つしかありません。遙か遠くにおり弱い立場に置かれています。多くの人はそれを解釈し、説教し、教訓を述べます。それは病人にとっては、あたかも隣に行くのに地球を一周するようなみちです。
神は、その高貴で、丈夫な人々のいるところではなく、この病人の側に立たれるのです。それはわたしの今おかれているところに来てくださる主イエスです。受難節の今、主はそこにいます。
2016/2/28 弱い立場にある人の側に立つ教会