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2016年2月14日 受難節第1主日礼拝
「 今日も明日も進まれる主 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 13章31-35節
信仰は動詞形であると共に、基本的に一人称単数の現在進行形でなければなりません。昔のことや、遠い未来のこととか誰か他の特別な人の話ではなく、今ここに働きかける私への神の言葉とそれへの応答でなければなりません。
主イエスは腰が曲がって18年間悩んでいた人をいやされた時(ルカ13:10-17)、続いて「神の国」についての話をされた時(同18-30)、「ちょうどその時」(31)ファリサイ派の人たちが何人か近寄ってきて「ここから立ち去って下さい」と言いました。それはなぜでしょうか。多くの人はイエス様の話を聞きたいと「足の踏み場もないほど」(12:1)押し寄せていました。そこではイエスの権威ある新しい教え(4:32)がなされており、具体的に多くの人の病をいやして下さっていました。人々はこれを見て神を賛美していました。どうして「去ってください」となるのでしょうか。これが抽象的なことであり、遠い未来のことや関係のないところでのことであるなら「どうぞ御勝手に」となっていたことでしょう。しかしここでイエスのしていることは、神の国の実現でありながら、今の彼らに問いかけてくる内容でした。ファリサイ人にとっては、自分たちの立場を怪しくする事柄であり、それがどんなに人から喜ばれたとしても「困ったこと」なのでした。「ヘロデがあなたを殺そうとしています」という理由は、口実に過ぎません。文脈からすると、「ちょうどそのとき」は、安息日に病人をいやすというファリサイ派の人たちにとっては存亡に関わることへの挑戦が投げかけられた時なのです。権威や教義で説得しようとしても事実ほど強いことはありません。議論しても勝てないのです。彼らにしてみると、イエスがここにいて貰っては困る存在だったことは確かでしょう。自分たちは今何か困って悩んでいるわけではない、医者を必要としない健康な者です。「わたしたちはあなたに反対だから」とは言わず、ヘロデのせいにするのです。彼らはヘロデ以上にイエスに殺意を持っていたことでしょう。主の宣教は具体的です。時間性と場所性がはっきりしていないところではどんなことでも空想できます。
イソップ物語に「ヒックロードス、ヒック、サルツース」という言葉があります。「ここがロードス。ここで飛べ」という意味です。一人のほら吹き男が「わたしはロードス島で、オリンピック選手も飛べないほどの跳躍をして、人々を驚かせた」と言っていました。一人の少年が「ロードス島に行かなくてもいい。ここがロードスだ。ここで飛んでごらん」と言ったのです。
主イエスはこの親切な「忠告」に対してヘロデのことを「あの狐」と呼び、退去のすすめを退け、民衆の悩みの中にとどまり、その中に進んで行こうと決意を新たにされました。具体的に働きかけ御支配されます。ヘロデ王は、妻ヘロデアにそそのかされてヨハネを殺しました。イエスについても同じでした。ファリサイ派の人々とはスマートな社会のために、時と場をずらすのです。
主イエスは「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と言い、現在進行形でわたしたちに向かわれます。「またな」とか「向こうの国で」ではありません。それは「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前たちの子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(34)とあるように、主は私たちを悔い改めさせようとして、幾度も呼びかけられています。しかし、わたしたちはそれに応えようとせず、「また」と言い「ここから去って下さい」と言うのです。主は今日も私に語りかけて下さっています。受難節を心して送りましょう。
2016/2/14 今日も明日も進まれる主 証し/金子町子姉