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2016年2月7日 降誕節第7主日礼拝
「 狭い門から入れ 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 13章18-30節
イエスは「神の国」をからし種にたとえています。からし種はどんな種よりも小さい小麦粉のような小さな種ですが、それが庭に蒔かれると成長して4メートルもある大きな木になるそうです。そこでは大きさや数ではなく、あるかないかです。私たちは自分の価値を計ろうとします。他と比べてどうか大きいか、数はどうかと。自分の小ささに気付かされ、絶望してしまいます。しかし神の国は、その大小にあるのではなく、あるかないかです。
主イエスはまた「神の国」をパン種(イースト菌)にたとえています。少しのパン種が3サトン(約50キロ)の中にはいると全体が膨らむのです。ここでもパン種の少なさが、全体の大きさと比較されて、その多少が問題では無きことが説かれています。からし種は大きな木に成長して、空の鳥が巣を作るようになる。またパン種が全体を膨らませるように、神の霊が人の中に入ると、その人ではなく、この世界の大きな変化が起きるのです。
つづいて、ある人が「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」と尋ねました。ここでも多少が問題になっています。これに対して主イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」と答えています。大小、多少と並んで、ここでは狭いか広いかが問われています。イエスは山上の説教で「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」(マタイ7:13,14)と言われました。広い戸口から入りたいと思います。楽々と楽しく、仲間同士で上ノ国に入りたいと思いますが、主は「狭い門から入りなさい」と勧められます。
何もせずに、失敗しないより、み言葉に聞いて失敗した方がいい。変化を嫌う人は失敗しない。しかしその人は何も学ばないでしょう。その人はとどまっているのではなく、そこから落ちていることを知らねばなりません。神の招きには自分の人生がひっくり返されるようなことです。その時には神に委ねるしかありません。失敗するかも知れない。こんなところに来るんじゃなかったと後悔するかも知れない。しかし、動かないでじっとそこにとどまっているのより遙かに多くのことを学ぶでしょう。
神の国に入っていくのに大手を振って入っていけると思わないことです。そこには自分たちを拒否する狭い門がそこにはあるでしょう。自分の立場からはとてもじゃないけど入っていけそうにありません。しかし、神は強引に私たちを引きずり込まれるのです。神の憐れみです。自分から進んでは入っていけません。その強引な手が私たちに対する神の愛のみ手です。怖くて入れない。しかし主は招いてくださる。最後は「はい」と行って従うのです。そうすると神の力が働いて私の中で変化が起きるのです。その力に身を任せるのです。自分の持っている大小ではありません。これほど楽なことはありません。
何を食べようか。何を飲もうか、あるいは何を着ようかといって思い悩むのですが、主は「思い悩むな。神の国を求めなさい」と言ってくださいます。(マタイ6:25以下)この選択は失敗かも知れない。委せなさい。あなたの決断を神は受け入れて下さる。
使徒パウロは「このような宝を土の器に納めています」(コリント二4:7)と言っています。自分が宝になるのではなく、自分の中に宝物を持つのです。そのことにより全体が膨らみます。主に入って頂くこと、そこに身を任せることです。恐れることはありません。
2016/2/7 狭い門から入れ