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2016年1月31日 降誕節第6主日礼拝
「 待ったなし 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 13章10-17節
あるガリラヤの小さな村の会堂で、礼拝がなされていて、イエスがそこで教えておられました。村人は神の言葉に耳を傾けていました。話の内容は記されていません。ここでは重要なのは話の内容ではなく、イエス様のなさったこととそれに関する議論です。イエスの宣教においては話の内容よりもそこでイエスがなさったことが中心になります。すなわち主との出会いです。そこに18年間病に苦しみ、腰が伸ばせない婦人がいました。イエスはその女を見て呼び寄せ、「「婦人よ、病気は治った」と言われました。彼女の上に手を置くと、婦人の腰はまっすぐになり、神を賛美したのでした。これはとても喜ばしいことであり、人々は驚き、イエスの喜びでもありました。<br>
ところがこのイエスがなさったことに、おもしろく思わない人がいました。その日が安息日だったので、会堂長が言いがかりをつけました。「働くべき日は6日ある。その間に来て直してもらうがよい。安息日はいけない」と言いました。この言葉に対してイエスは激しい口調で反論します。彼に対して「偽善者たちよ」と叱ります。この激しさは、この時だけではなく、かねてから思っている憤りのようなものが込められているようです。またそのはげしさは、この18年間、病に苦しんできた婦人への憐れみの心の強さでもあるでしょう。この会堂長が頭の固い形式主義者であったとは考えられません。極まじめな会堂司(長)だったのでしょう。安息日は人の命よりも大切な掟として守ってきたユダヤ教の伝統を重んじる人で、病気をいやすなど、「とんでもないこと」と思い腹が立ったのです。叱られて余計に腹が立ったかもしれません。彼の提案する「別の日に、またいつか」ということは、問題をずらし、何の解決もしません。ただそこにいる人たちがいやな気持ちにならないですむ、上手なやり方ではなかったでしょうか。主イエスは、そのうまくスマートにことを片づける常識について怒るのです。それは病人の悩みを何も解決せず、後にずらして平和に過ごすだけでした。<br>
この婦人にとってイエスとの出会いはこの日しかなかったのです。「またな」は諦めることでした。この人にとっては、ただこの時、ここでしかないのです。このときを逃すと、主イエスとの出会いは未来永劫ないのです。また18年間悩み続けることになるのです。<br>
礼拝は神と人との出会いであり、人と人との出会いが中心になるものです。テレビやビデオを見て、いい話を聞いて、それで礼拝を守っているとはいえません。交わりがなければ礼拝は成り立ちません。イエスとの出会いは、そこでいやしが起きます。早く牧師の話が終わらないかなあ、終わったらあの人と話をしましょう。一緒にうどんを食べましょうというのも意味があるのです。そのような共同体は健康的と言えるでしょう。<br>
信仰は動詞です。いつでも、どこでも、同じものではありません。ここで、この時しか聞けない時間性と場所性が求められます。そのためには律法も犯す愛が働きます。今この時を逃したら、後はないというような内容が教会の礼拝にはあるのです。この時しかない、待ったなしです。
2016/1/31 待ったなし