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2016年1月10日 降誕節第3主日礼拝
「 賢い僕 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 12章35-48節
逆に、自分のことしか考えない、今さえよければいい、儲かればいいと考えて、熱心に動き回っている人たちはあまりうらやましいとは思いません。その人たちの今幸せは、意味のない時でしかないからです。彼らは、やがて辛いことになるのではなく、今が悲しいのです。
今日のテキストで主イエスは、「目を覚ましている僕」について3つのたとえを話しています。第一は、真夜中に婚礼から帰ってくる主人を待っている僕の話。婚礼から帰ってきた主人を寝ないで待っている人は、彼らのために食事を用意し、主人が給仕するというのです。この話は、小さかったときの我が家を思い出します。田舎で婚礼があると父親がお客に呼ばれて出かけます。帰ってきた父は子どもたちを起こして、食べずに持ち帰ったごちそうを食べさせてくれたものです。その喜びのために「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」(35)と言われます。神様が福音を持って私たちのところに来てくださる。それを信じて待つ人は幸いです。
次に、その主人はいつ来るか分からないから「目を覚まして待っているように」と諭します(35)。それは盗人が来るように突然やって来ます。「目を覚ましている」ということは、今現実に起こっていることについて無関心でいるなということでしょう。その基準を自分に置くのではなく、100年先、1000年先の神の国に結びつけて、今を生きることです。
第三に、主人に管理を任された僕の話です。何時帰ってくるか分からないから、何時来られてもそこで働いている人たちを大切にし、喜んで暮らしている様子を主人に見られる人は幸いです。逆に、主人は当分帰って来ない、終末の遅延で、真面目にやることはない。適当に今の時を楽しめばいいのだ、「我が無き後に、嵐よ起これ」と決め込んでいる人です。彼は「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり」(45)して自分たちの好き勝手をしていて、主人に見つかるとひどい目に遭います。
終末についてのこの話で中心になるのは「今」です。やがて来る終末ではなく、それに備えて今どうするかが問われています。主人の帰りを待っている忠実な賢い僕とは、今の時代に、将来来られる主の御支配を信じ備える人のことです。現実に目をつむって、将来のことについて熱狂するのではありません。どんなに小さな者でも、あるいは短い命であったとしてもそこには神の御意志があり、言葉が秘められています。
パウロは「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ人への手紙11:1)と言っています。いつ来るか知れない終末を望みつつ、今をしっかりと生きることです。わたしはこのように考えます。
未来への希望 ― 未来は向こうからやって来る / 未来はこちらから向かっていく/
その出会いが今だ / 向こうから来る未来を信じ/ 今日、未来に向かって歩く/
希望を持って
2016/1/10 賢い僕