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2015年12月13日 待降節第3主日礼拝 Ⅲアドベント
「 御心でないなら 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 12章1-12節
主イエスは、弟子たちを宣教に遣わすにあたり、ファリサイ人のパン種(偽善)に注意するようにと忠告します。世の光として来られた主イエスは、現存する形式主義や権威主義、保守主義に捕らわれず、新しい世界を告げるために、弟子たちに何を基準にしてこれからの宣教に向かうべきかを示されました。
まず初めに、「覆われているもの」について教えています。(4)つい「分からなければいい」という気持ちが支配しますが、神様はすべてをご存知です。見えないところをきれいにしていると、全体がきれいになります。神様の御心は覆われていますが、必ずこの歴史に現れます。パウロは「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」(コリント二、4:18)と言いました。まず神のみこころを第一とするのです。
次に、主イエスは弟子たちを「友人である」と呼び、恐れるなと励まします。この世の力を恐れず、真に恐れるべきものを恐れるように。旧約聖書では「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:4)とされています。そしてヨハネによる福音書では「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・万物は言によって成った。成ったもので、言によらずになったものは何一つなかった」(ヨハネ1:1-3)とあります。私たちはいろんなものを恐れながら生活しています。失敗したらどうしよう。あの人たちはどう思うだろうか。いじめられるのではないだろうか。殺されるのではと心配です。弟子たちもキリストに従うにあたり、いろいろな恐れがわいてきます。ちなみに「おそれ」という漢字を調べると18個もありました。それほど多くの恐れがあるのです。そんな中で神を畏れることが一番大事なのです。市場で売られている一羽の雀さえ、神の御心でなかったら落ちることがないと言われます。どんな小さな事象も神の知恵(法則)に反して起きていません。この言葉は限りない慰めと励ましがあります。私たちの現状がどのように絶望的であったとしても、そこには必ず神様の御心が支配しているということです。ただしそれは自分の思いがいつかは叶えられるという自分が中心ではありません。もしそうであるなら、。そこには絶望が待っているだけです。わたしのすべてが打ち消されたとしてもそこに御心があるのです。どんな小さなことでも、またどんな大きなことでも、そこにはちゃんと神の思いが込められていマス。私たちはそれにつながるのです。
恐れるな 空飛ぶすずめ一羽さえ 御心ならずば落ちることなし
さらに、公の席での信仰告白です。こんなことを言ったら、どう思われるかしら、つい心配になる。それは当たり前です。そう思うのが信仰がないのではない。信仰は勇気ではありません。何を見るかです。主がこの世を支配しておられる。この弱さを包んでくださっているということに心をとめることでしょう。人間の勇気や意志には限界があります。マリアさんが「御心が成りますように」と告白したように任せることです。イエスを自分で背負うのではありません。主が背負ってくださいます。クリスマスにあたり圧倒的な神の恵みに自らをお任せしましょう。