今週の説教要旨

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2015年12月6日                     待降節第2主日礼拝   Ⅱアドベント

「 器の内側を清くせよ 」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書   11章37-54節

 日が暮れるのが早くなりました。夕方の事故が多いそうです。少し暗くなりかけたところで、まだ見えていると思うことで事故が起きるのでしょう。自動車の点灯は、先の暗い道を照らすだけではなく、自分がここにいますよと、相手に知らせることも大きな役割であるそうです。注意して早め点灯に気をつけたいと思います。光は相手を照らしますが、自分のことも見えるようにするのです。光は闇を照らします。「悪を行う者は、光を憎む」(ヨハネ3:20)とあるように闇である私たちはその光を嫌うのです。人を照らす光は求めますが、自分を照らす光は好まないからです。そして周りに鈍感になってしまいます。
主イエスは、ファリサイ派の人から食事の招待を受けた時、食事の席に着いたのですが、そのときイエスは手を洗わないで食卓に着きました。家の主人はその様子を見て、イエスを不審に思ったとあります。どの家でも食事の席に着く時には身を清めることになっていて、そのための手洗いの水が入り口に用意されていました。これは衛生の問題もありますが、宗教的意味が込められています。わたしたちが食事の前にお祈りをするようなことです。ですからイエスを客に招いたファリサイ派の人の疑念は、特別なものではなくごく常識的なことと言えます。しかも彼は口に出してイエスを責めたわけではなく、不審に思ったというだけです。ところがイエスは、この人の心を見抜いて逆襲します。「実にあなたたちファリサイ派の人たちは、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。・・・あなたたちは不幸だ’(わざわいだ)」と批判しました。これを聞いていた律法の専門家は「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」(45)「わたしたちはそんな者ではないことはご存じでしょう。わたしたちまで同じように侮辱したことになりますよ」と忠告したのです。それに対してイエスはさらに厳しい言葉を投げかけました。「あなたがた律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとはしないからだ。・・」(47)
イエスはここで、自分に好意を持って食事に招いてくれた人も含めて「ファリサイ派の人々」や「律法の専門家」とひとくくりにして「不幸だ」と裁いています。外側をきれいにするが内側は汚れているからです。律法の専門家はまさか自分は違うだろうと思っていたのに例外ではないとはっきり言われてしまいました。だから彼らは「激しい敵意を抱き、いろいろの問題で質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた」(44,45)のでした。
さてこの話を聞いてわたしたちはどこに自分を置くでしょうか。ファリサイ派や律法学者を批判する側に自分をおいているのに気づきます。このファリサイ人や律法の専門家はなんと形式主義的なのでしょうかと批判しますか。あるいは傍観者でいましょうか。しかし、彼らはわたしたちの想像するような偽善者ではありません。むしろ社会的には人格者といってもいいでしょう。少なくともこのファリサイ人はイエスに好意的で近くにいようとした一人でした。さらに律法の専門家は、まさか自分が批判の対象になど成るはずがないと決めてかかっています。主イエスはそのファリサイ人や律法の専門家を責めています。彼らが特別に偽善者であったわけではなく、わたしたちよりも人情があり、正義感の強い人であったはずです。ということは、「不幸だ」と言われている偽善者にはこのわたしが含まれていて当然です。「災いだ」と言われて当然の存在です。
キリストの光に照らされ、わたしたち自身が憐れまれねばならない存在であることを自覚しなければ成りません。自分は正しいと思っている者ほどその汚れがひどいのです。
クリスマスに当たり、キリストの贖いによってこのわたしたちは清くされなければならないことを自覚し、その贖いに感謝しましょう。


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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。