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2015年11月15日 降誕前第6主日礼拝 子ども祝福
「 求めなさい 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 11章5-13節
祈りは神への願望です。それは未来に向かっての祈りです。今日は幼児祝福礼拝をしています。わたしたちの祈りは、過去への回顧やその神話化ではなく、今の現実をしっかり踏まえ、神の御意志を実現する未来のために祈るのです。次世代を担う子どもたちの祝福を祈ります。祝福とは苦難や失敗がなく、無事に成功して世の中のトップに立つことではありません。どんな状況にあっても神様が共にいて、その御心に沿うように生かされることです。
主イエスは、「求めなさい」と言われます。「悲しんでいる人々は幸いだ」「貧しい人々は幸いだ」「迫害されている人たちは幸いだ」と言いながら、ここでは「求めなさい」「探しなさい」「「門をたたきなさい」と奨めています。ここに対立があります。キリストに従ったら、何も不足することのない、豊かで安心できるのではないようです。逆に、寂しさと、貧しさと、恐怖にとりつかれる。キリストに従っていなかったらこんな苦労はしなくてすんだのに、という闇の世界に放り込まれる。まさに、「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(10:3)と言われたことが現実です。そこに期待とのギャップを経験するのです。何が幸いなものか。不幸のどん底ではないかと言わねばなりません。主イエスは、そのような出来事に直面するであろう弟子たちに「求めなさい」と言い「幸いである」と祝福の言葉を送るのです。
ルカによる福音書が書かれたのはb.c.90年頃と言われます。そのころのキリスト者は不安のどん底と言える時代を生きていました。この時代は、「まもなく主が来られる」という期待が裏切られたときです。逆にキリスト者に対するローマからの恐ろしい迫害がありました。イエスの時代が過ぎ去り、教会の時代を過ごしていました。ルカが伝えようとしている使信は、単にイエスの歩んだ過去を振り返って、懐かしみ、思い起こすことではなく、イエスの歩みと十字架と復活の出来事の只中に神の働きがあったように、今も確実に神の救いの歴史は進行していると言う真理を伝えることです。そして我々の時、今もなお、この時代に神のお働きは現実となっているという確信を持つことです。その事実を目撃し、出合うことこそ祈りの生活です。
友が夜中に訪ねて来た。どうしよう。貧しくてパン一切れもない。そうだ、親しい友達の家にパンをもらいに行こう。きっと助けてくれるに違いない。戸をたたくと、もう夜中だ、子どもも寝静まっている。迷惑かけないでくれと言われてしまった。迷惑は分かっている。でも何とかして欲しいと戸をたたき願い続けました。この人は友人だからといってではなく、うるさいからという理由でパンをくれました。この様に神に求めなさいと主イエスは言われます。
真夜中というのは、キリスト者の現実でした。主の再臨は遅れ、ローマの圧政びよる恐ろしい迫害がある。貧しさは見透しがきかない。自分たちには何もない。これがキリスト者の出合っていた現実でした。そこで、この現実を信じ、友に頼るのです。それが神を信じることです。求め続けるのが祈りです。求めても得られなかったら、探しなさい。それでもだめなら門をたたきなさい、と言われます。逆に、求めなかったら何も起こらない。探さなかったら見つけられない。門をたたかなかったら、だれも助けてくれない。人に頼るのではなく、神に頼る、だから現実に向かって生きるのです。この求めている人は神に求めているのです。ですから悔しいことも、恥ずかしいこともありません。キリストの故に受ける辱めは喜びです。
ルカによる福音書が、この世にこびるのではなく、勝利する貧しい人の栄光を示そうとしている意図があります。神は必ず、今ここでよいものをくださる。その信仰に立ちきることです。未来に向かうのです。そのような祝福を幼子に祈りましょう。
2015/11/15 求めなさい (終始ノイズがありお聞き苦く申し訳あり ません)