HOME > 今週の説教要旨
2015年11月1日 降誕前第8主日礼拝
「 主の祈り 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 11章1-4節
本日は永眠者追悼礼拝をしています。先達たちの信仰に学び、祈りの教会としての伝統を守っていきましょう。信仰における「祈り」は動詞でなければなりません。「祈り」について解説したり、模範的な形を研究するのではなく、その前に、祈るという行為から始まるのです。「主の祈り」は「主が祈られた祈り」でもあります。
ルカによる福音書の特徴は「祈るイエス」です。洗礼を受け祈っておられると、聖霊が降り」(3:2)ました。弟子の招集にあたり「祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(6:12)。ペトロの信仰告白のとき「イエスは一人祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」(9:18)。イエスの変貌のとき、「イエスはペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」(928-) ペトロのキリスト否認のとき「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(22:32)などです。主イエスはその生涯の決定的に重要なとき、必ず祈っておられることが告げられています。このことは福音書記者が、イエスが絶えず祈っていたことを伝えようとするよりも、彼自身が祈りを必要としていたことを伝えるものです。イエスは言うまでもなく「神のキリスト」(9:20)です。しかしそれはイエスが父なる神に向かい、「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」(22:44)ことであり、そこから希望へと立ち上がって行かれた方であられたことを伝えます。神の派遣と神との交わりの確信無くして「キリストの業」に立ち得なかったのです。
主イエスは、弟子たちを宣教に派遣するに当たり「財布も杖も履物も持っていくな」(10:4)
また「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(12:22)と命じています。それでは弟子たちには何の苦しみもないのでしょうか。そうではない。彼らは大変な貧しさと苦難のただ中に立たされるのです。「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(10:3)と言います。弟子たちが飢え渇き、捕らわれ、獄に入れられ、だれも訪ねてこない孤独な目に遭うことを知っておられる。そこに神の御手を待つのです。そこで祈りが生まれます。「わたしの名のために、これらの小さい者の一人にしたことはわたしにしてくれたことである」(マタイ10:42)という言葉が生きてきます。祈りは決して形や教義ではありません。イエスはだれよりも神からの支えを必要とした方です。
イエスが祈っておられたとき、祈り終わったイエスに弟子たちが「祈りを教えてください」と願いました。この願いは、祈るイエスに触発されたものであり、その内容もイエスの祈りそのものです。「主の祈り」は「主が祈られた祈り」でもあります。
主の祈りは、「父よ」とごく身近な存在としての語りかけから始まります。同時に「御名」であり「御國」は自分たちとは隔絶された存在への願いです。「神が我らと共に」であり「我らは神と共に」が両立するところに祈りの基本があります。主イエスは「父よ」と呼びかけつつ、完成された者としてではなく、弱く孤独な不完全な存在として神の前に祈ります。そこに共にいます神に出会う。神と共に存在し、祈りは御國を仰ぎ、御心へと進むのです。御國とは神の御支配であります。それがこの地上になるように。自分の身に起きますように。その時に自分が本来の自分に戻されるのです。
「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」(3)主イエスは「財布を持つな」と教えながら、弟子たちの日々の暮らしについて神に祈っておられます。主は私たちの日ごとの悩み苦しみを共有されます。神が御支配くださる。だから財布を持つなと言われるのです。
また、罪の赦しと誘惑について主ご自身が誘惑を遠ざけ、弟子たちの罪を赦し、兄弟の許し合いを願われました。そしてそれはわたしたちの教会の祈りでもあります。
2015/11/1 主の祈り