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2015年10月25日 降誕前第9主日礼拝
「 必要なことはただ一つ 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 10章38-42節
イエスの一行がある村にお入りになったとき、マルタとマリアの姉妹の家に迎え入れられました。(38―)ベタニアに住む彼女たちですが、マルタとマリアについてはヨハネによる福音書により詳しく描かれています。(11:1-54)(12:1-11姉のマルタは一行を「家に迎え入れ」「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(40)のですが、妹のマリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(39)のでした。ここに二つのタイプの女性がいます。一人は、人の世話を一生懸命にするマルタのタイプ。もう一人は、礼拝や祈祷会を大切にするマリアのタイプです。どちらが重んじられるのでしょうか。よく衝突することです。
主イエスの一行を迎え、その接待で忙しくしているマルコと、手伝いもせず主の足もとに座ってじっと話を聞いているマリア、マルタは辛抱できなくなり、イエスに言い上げました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40)と。普通は「少しは手伝ってよ」と妹に直接言うことでしょう。それをお客であるイエスに言うことは少し不自然さを感じます。ここにはただ不平を言い上げたと言うこと以上に、何が大切かを宣教の立場で問題にしている意図が伺えます。すなわち、この世に奉仕することか。主の言葉に聞くことかです。
このマルタの言い上げに対して主イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはよい方を選んだ。それを取り上げてはならない」(41,42)と言われました。
情報過多の時代です。多すぎて何がなにやら分からなくなります。その上、カードやパスワードとかマイナンバーなどと数字の社会はややこしいです。それにまつわる犯罪も多く発生していて、われら年寄りは「間違わないように」「ここを押すのですよ」「ぁ、間違った」などと言うことがよくあります。便利になるはずですが、情報が多くて目の前がわかりにくいです。新しいシステムで間違うのは分からない人ではなく、よく分かっている人が悪いことを企んでトラブルが起きるシステムのように思えてきます。あまりにも情報が多くて必要なことが何か分からなります。イエス様は「必要なことはただひとつである」と言われました。
この話が「善きサマリア人」のたとえ(ルカ10:25-)の後に書かれていることに一つの意図が隠されています。それはキリスト者がこの世の悩み、痛みを共に担い隣人になりなさいと言う主のご命令と、マリアのようにただみ言葉を聞いてこの世の煩いには関わらないという信仰中心主義との対比が見られるのです。いつの時代にも福音と社会のことは大きな問いです。この二つの話は対立することでしょうか。
ただ一つの「必要なこと」とはなんでしょうか。福音か社会かと二者択一している間は、たくさんの情報の中から抜けられないでしょう。そうではなく、主がここに来られたと言うことです。そこに目を注ぐときに何をしなければならないかを知ることが示されます。マリアは、罪の女とされていたのに主に出合って命を得ました。彼女は、疲れた主イエスに泣きながら香油を注ぎかけました。(7:36-)それは主を慰める大きな働きでした。また主が墓に葬られたとき主の母マリアと共に墓に行き、復活の主に出合いました。(24:10)
主が来られたこれこそが無くてはならないただ一つのことです。それに注目しましょう。
2015/10/25 必要なことはただ一つ