HOME > 今週の説教要旨
2015年10月18日 聖霊降臨節第22主日礼拝
「 隣人になる 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 10章25-37節
「善きサマリア人」のたとえは、イエスのたとえ話の中でも特に有名です。律法の専門家がイエスを試そうとして「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。するとイエスは律法には何と書いてあるか」と問い返すと、律法の専門家はすかさず答えます。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と書いてありますと答えました。主イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば永遠の命が得られる」と言いこのたとえ話をされたのです。
ある人(ユダヤ人)がエルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎに襲われました。追いはぎは、旅人からすべてを奪って彼を半殺しにして逃げ去りました。なすすべもない、山の中の人が滅多に通らないところです。このままでは死んでしまうかもしれない。ただ助けを待つしかありません。そこにたまたま祭司が通りかかりました。祭司はイスラエルの宗教家でも最も尊敬され高貴な人とされている人です。この旅人は祭司を見て「よかった、よい人に出会えた」と神に感謝したかも知れません。心から助けを求め叫んだことでしょう。しかし、祭司は「彼を見ると、道の向こう側を通って行った」のでした。だれも見ていない。怖かったのかも知れません。愕然とした旅人は、この祭司は偽者だと思い、次の助けを待つしかありませんでした。
すると次に通りかかったのはレビ人でした。この人も祭司同様イスラエルを代表する人で、人々から尊ばれている身分の宗教家です。「この人こそ神からの使者」と思い、助けを求めたことでしょう。しかしレビ人も道の向こう側を通って行きました。関わりになるのを恐れたのでしょう。祭司とレビ人を同じ姿勢の者として登場させていることには、この人たちが特別愛情のない偽善者というわけではないことが分かります。どんなに優れた人格者でも、命に関わることでは無力であることをしましています。自分に危険が降りかかることには近づかないということでしょう。
ところが、そこにサマリア人が通りかかりました。サマリア人とは、イスラエル人にとっては神を知らない野蛮な罪人とされていました。ですから旅人はこの人を見たときどう思ったでしょうか。「こんなときに、サマリア人に会うとは、なんと不幸なことでしょう」と思ったかも知れません。ところが予想に反してこのサマリア人は旅人を見ると「憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」(35)と言いました。何という親切な人でしょうか。
主イエスはこのたとえで弟子たちへの常識を覆すどんでん返しを語っておられます。祭司やレビ人は特別な人ではない。イスラエルを代表する宗教家で人格者です。サマリア人も特別善い人でなかったでしょう。ここで「正しい」解説をしても意味にないことです。使徒として遣わした弟子たちが出会う人です。神の愛のどんでん返しでしょう。本来なら神の選びに数えられるはずのない弟子たちが神に選ばれました。その愛を受けるとき、どんなにふさわしくない者であったとしても、無くてはならない存在にされるのです。そして「だれが隣人か」と問うのでは無く、「隣人になりなさい」と言われるのです。キリストがわたしの隣人になってくださった。だからわたしたちも隣人になりましょう。