今週の説教要旨

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2015年10月4日                          世界聖餐日   聖霊降臨節第20主日礼拝 

「 弟子の派遣 」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書  10章1-16節

信仰は、神が主体になり、それに自分を委せて門出することです。主イエスはわたしたちを神様の宣教に派遣されるのです。その時に、一切の思い煩いを捨てて従うようにと命令されます。
 主イエスは、先に12人の弟子を選んで宣教活動に派遣しました。(9:1以下)それに加えて今日のテキストでは「72人を呼び集め」「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために」派遣されました。72人という数字から福音が全世界に広がって伝えられることが象徴的に意味されているようです。「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)というのが主の思いでしょう。日本に来た宣教師たちも、それに同行した伝道者たちも、この主の言葉に従って「すべての町や村」に伝道したのでした。明治期のまだ交通の便の悪いとき、迫害の強い中、京都の丹後の奥、四国の山奥、東北の漁村、離島の小島、雪深い蝦夷地までにわらじばきで出かけ、伝道し、そこに教会を建てたのでした。それは命がけの働きだったでしょう。
 いずれの町や村にも、病める人、苦しむ人々が多くいます。主イエスはそれを「収穫」と言われます。わたしたちが収穫というと、成功であり、教会に多くの人が集まって、立派な身分の人や裕福な人が集まって活気づいていることを連想しないでしょうか。病んでいる人や老人や苦しんでいる人々は収穫とは思わず、むしろお荷物、収穫を上げる人々と思っていないでしょうか。弟子たちも「刈り入れ時までにはまだ四か月ある」と言っています。しかし主イエスは「目を上げて畑を見なさい。はや色づいて刈り入れを待っている」(ヨハネ4:35)と言われます。弱り果てている人、苦しんでいる人、悲しんでいる人そのような人はすべて憐れみを必要としています。そのような現実を主イエスは「収穫」と見ています。わたしたちの現実もそうです。教会はそんなに振るっていません。しかし周りを見れば、実に多くの苦しんでいる人たちがいます。その現実を収穫と見て、働き人を送ってくださるように祈るのです。
 次に伝道者を遣わすに当たり「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(3)と言われました。伝道の困難は大変なことであり、イエスの証しすることは、人々から喜ばれるよりも恐ろしい迫害が予想されました。にもかかわらず、彼らに「財布も袋も履き物も持って行くな」と言われます。これは苦難の上にさらに厳しい苦難の覚悟を勧めているように聞こえますが、そうではありません。そのような厳しさの中で、財布も袋も履き物も必要がない。神様が必要なものをくださる、という単純な信頼であり、それが信仰なのです。
 「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」(16)ということは、キリストは、この遣わす一人ひとりと同行していることです。その人の話術や人柄がいいからではなく、遣わした人のことを自分のこととしているのです。だから行った村や町で弟子たちを拒んだ者に対する激しい怒り、呪いは、最上級のものです。彼らが行ったところで「飢え死にしろ」などとは決して言わない。「働く者が報酬を受けるのは当然だからである」(6)とします。神様は共にいて、その生活も守り、与えてくださるという信仰に立つことです。
 最近、複雑な人間関係や社会の状況に悩み、心の病気にかかっている人が多くいます。この人たちに対する専門家の治療か欠かせませんが、その人のそばにいて魂の配慮をする牧師の働きも大切なことだと思います。キリストの福音が必ず大きな癒やしを与えて下さるに違いありません。必ずしも歓迎されることばかりではないと思いますが、そこに弟子たちを遣わされた主が共にいてくださることを信じ、出かけましょう。


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2015/10/4 弟子の派遣

日本基督教団 世光教会のご案内

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いつでも、皆さまのお越しを、心から歓迎いたします。
世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。