HOME > 今週の説教要旨
2015年9月20日 聖霊降臨節第18主日礼拝
「 神の国にふさわしい者 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 9章57-62節
主イエスの一行が「エルサレムを目指して」進んでいるとき、イエスに従う3種類の人が出てきます。第一の人は「あなたがおいでになるところなら、どこへでも従って参ります」と申し出ました。(57)このように言える人は模範的な人です。しかし、イエスはこの人に対して「狐には穴があり、空の鳥に蓮がある。だが、人の子には枕するところがない」と言われました。突き放したような言い方です。この地上には自分を褒めてくれたり、評価してくれるところはないということです。「どこへでも従う」と言う人ですが、そこには「ほめられたい」という気持ちがうかがえます。この人はいつもよい子でいたい人でしょう。
あるとき、金持ちの議員がイエスのところに来て「永遠の命を得るのに何をしたらいいですか」と尋ねました。イエスは彼に「律法を守りなさい」と言われました。それに対して「子どもの時からすべて守ってきました」と答えました。イエスはこの人に「全財産を売り払い、貧しい人に与えなさい」と言いました。すると彼は顔を曇らせて帰って行きました。(18:18以下)このように、自分で完全になろうとしても的はずれになるだけです。
第二の人物は、イエスの方から従うように求めています。その人は「まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。当時のユダヤ社会では、親の死に直面したなら、親を葬ることは子として最も敬虔な行為であり、美しい習俗でした。したがってこの人の申し出は当然であって、イエスの方が不謹慎、非常識ということになります。今日のわたしたちにとっても葬儀に象徴されるような親の面倒を見ることは、見過ごしにはできない大きな問題です。決してどうでもいい「死人のこと」などではないでしょう。「認知症」「老人介護」「胃瘻」「葬儀」などの問題は、今日の最も大きな宣教の課題と言っても過言ではありません。しかしこれらの重要なことが、大きくなるために神に従うことが二の次になることが問題なのです。結果的に老人問題が置き去りになります。「まず神の国と神の義を求めなさい」でなければなりません。主イエスは親のことなどどうでもいいと言われているのではなく、神の国を求めることを奨められています。
第三の人物は「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」(61)と言いました。「家族へのいとまごい」ということも、大きな問題です。子どもの教育、家族の生活、近所、健康、老後のこと、隣近所とのつきあい、職場のことなどどれも軽視できない事々です。キリストに従おうとするときに引っかかってくる事柄です。「暇になったら」「時間ができたら」「経済的に余裕ができたら」「反対する人がいなくなったら」ということが理由になって従うことが次へと延期されるのです。
主イエスはこの人に対して「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。(62)鋤に手をかけたら、まっすぐになっているかと、つい後ろを振り返りたくなるものですが、そうすると曲がってしまいます。遠く前方をしっかり見ることです。ここでもそれらのことが神の国と関係が無いといっているのではありません。「ふさわしくない」とはピタッといかないということです。親のことや、家族のこと、自分の将来など悩みの多いことですが、それれを神に委ねるのです。従うとはそのことです。
2015/9/20 神の国にふさわしい者