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2015年9月13日 聖霊降臨節第17主日礼拝
「 エルサレムを目指して 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 9章51-56節
ガリラヤ伝道を終えられた主イエスは、エルサレムに向かうに当たり「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意をされた」(51)とあります。ここにはイエスの並々ならぬ決意が感じられます。「天に上げられる」とは、「死」を意味し、同時に「天に上げられる」栄光も意味しています。ここにはイエスの死、復活、昇天までの流れがあります。「近づいた」は「満たされつつあった」という意味が込められています。「向かう決意」という言葉には、これらすべてが神の御心であることを自覚し、エルサレムに向かわれた主イエスの意気込みがあります。その信仰はイザヤの苦難の僕に通じるものがあります。
「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、侮りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを侮りとは思わない」(イザヤ50:6,7)この苦難は神の栄光に通じる苦難であり、それ故に甘んじてそこに向かう。苦しみの中に喜びと平安があるのです。神様がおられるからです。
主イエスは、わたしたちの救いのために、わたしたちの罪のために自らを犠牲にして献げてくださいました。罪のない主イエスが人類の代表として、懺悔をなし、ご自分の命を献げられ、わたしたちの罪の贖いを完成してくださったのです。聖書はこの一事をわたしたちに示し、その応答を求めています。わたしたちは、今このイエスに心を集中しなければなりません。わたしたちの心の中で、自分が小さくなりこの十字架のイエスが大きくなるように願うのです。
イエスは、ガリラヤにおいて「人々は皆、自分たちのところから出て行って貰いたいと、イエスに願った」(8:37)ように、またサマリヤにおいても受け入れられませんでした。イエスに対する拒絶はエルサレムにおいてはさらに激しくなり、そこで彼は十字架にかけられたのです。彼には歓迎され、ほめられる場はなく、この世にはイエスを受け入れる余地がないのでした。しかし主イエスはその拒絶されるエルサレムに向かって旅立たれたのです。
わたしたちは何に向かって歩み出そうとしているでしょうか。今ヨーロッパでは難民を受け入れることで大きな問題になっています。ドイツやフランス、イタリヤ、などで「どうぞいらっしゃい」という声が聞こえることは驚きです。わたしたちの国はどうでしょうか。「迷惑だ」「そのような人は受け入れるな」「厳しく規制すべき」「国防だ。国民を守れ」「愛国心」というような声が当然のように聞こえてきそうです。しかしそうすることによって自分を大きくして滅んでいくのではないでしょうか。主が大きくなり、わたしが小さくなるように、そのような教会形成こそ今日の時代に必要とされている教会だと思います。
2015/9/13 エルサレムを目指して