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2015年9月6日 聖霊降臨節第16主日礼拝
「 いちばん偉い人 」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 9章46-50節
ルカによる福音書4章14節から始まっているイエスのガリラヤ伝道の記事は、本日のテキストの箇所をもって終結します。9章51節以下はガリラヤからエルサレムへ向かうイエスの旅を描く記事が続きます。特に9章1-50節には、12弟子の派遣、弟子たちの手による5000人の給食、ペトロのキリスト告白と主イエスの受難予告、3弟子の前でのキリストの変貌、弟子の悪霊追放の失敗とイエスの癒やしなどです。これらはこれから宣教に出る弟子たちの教育に関する内容が込められていると考えられます。そしてキリストの福音はいずれも「困っている人」や「悪霊につかれた人」「最も小さい者」に現れていることがその特徴です。
本日のテキストはその総まとめであり、重要な意味を持つものです。「いちばん偉いのは誰か」という弟子たちの間での議論はその中心テーマと言えます。
どの時代、どの場所においても「だれがいちばん偉いか」というこのテーマは大きな課題です。それは信仰の世界においても変わらないようです。「いちばん偉い人になりたい」それはごく真面目な願望です。競争原理とも言えるでしょう。誉められたい、重宝がられたいという気持ちです。
この議論を聞いて、イエスは彼らの心の内を見抜き、近くにいた子どもの手を取って「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と言われました。「子ども」が偉いのではなく、子どもに象徴される「いちばん小さい者」が偉いのです。それはそこに神の御手が働くからです。そこでキリストに出会えるからです。
ガリラヤ伝道を終りに当たって、イエスはエルサレムに行こうと決心されますが、(51)それに先立ってイエスは言葉と業を通して弟子たちに福音の何であるかを示し、キリストに従う者としての教育をしてきたはずです。しかしイエスと弟子たちとの間には真逆の隔たりがあったようです。イエスが人々をいやし、悩みを解決されたときには、「あなたこそ生ける神の子キリスト」ですと告白できたのですが、その後に「人の子は人々の手に引き渡される」(9:44)という受難予告を聞いたときには、何のことか理解できなかった「怖くてこの言葉について尋ねられなかった」。(45)のでした。その勧めを聞いた応えのように「だれがいちばん偉いか」という議論になるのです。ここに大きなズレがあります。立派になろうとして御心から遠のくのです。
しかし私たちはこの弟子たちを非難することはできません。結局「いちばんになりたい」のであって、辛いことや悔しいことからは無縁でいたい。自分たちの仲間を大きくしたい。他人が良いことをしていても何かけちをつけてみたくなるか邪魔をする。というのが本音であって、そのための教会であり、宗教をつくるのです。
主は言われます。「これらの小さい者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と。(マタイ18:10)これは倫理や道徳、律法ではありません。福音なのです。そこに行けばキリストに会える。そこに救いがある、だから「気をつけなさい」と言われるのです。キリスト抜きに考えていると、「なん番だ」というこの世の評価が関心事になります。たとえイエスの名によって悪霊追放をしていたとしても、自分たちの仲間(同じ教派)でないならば止めさせようというセクト主義が起きるのです。この世界の中のどこにおいても小さい者への主の宣教Missio Deiはなされています。わたしたちはそれに協力しなければなりません。そこに福音があるからです。
2015/9/6 いちばん偉い人