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2015年8月30日 聖霊降臨節第15主日礼拝
「信仰のない時代」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 9章37-45節
本日のテキストは、悪霊にとりつかれた子どものいやしの話ですが、この直前にある「イエスの山上における変貌」の出来事と対をなしていると考えられます。前者は、山の上の神の子としての栄光の片鱗を現しており、いわば信仰の世界です。それに対して後者は、山を降り人間の罪と死の支配している不信仰の世界です。この話はマタイ17:13-18、マルコ9:14-27に平行記事として載せられています。
山を降りて弟子たちの出会った現実は、弟子たちに対する人々の期待とそれに応えられない失望でした。一人の男が群衆の中からイエスに叫びました。自分の一人息子が悪霊に取りつかれてけいれんを起こして引きつけ大声で叫び出します。親として苦しくて見ていられなかったのでしょう。弟子たちに何とかして欲しいと頼んだけれどもできなかったというのです。それは今の教会やわたしたちの現実でしょう。主イエスは、この不信仰の時代を嘆かれました。
マルコによる福音書では、この父親は「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言いました。するとイエスは「『できれば』と言うのか、信じる者には何でもできる」と言われました。するとこの父親は「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と言いました。
「信じます」と言いながらすぐ後に「不信仰なわたし」と言っているのは矛盾です。しかしこれが本当の姿ではないでしょうか。信仰は山の上で輝いている時だけではなく、下に降りて不信仰と矛盾のただ中で神の御支配を待つことです。
「できれば」というのは、大変謙遜で人受けのよい言葉です。できたら「ラッキー」で、できなかったら「そうですか」ですみます。頼む方も頼まれる方も傷つかずに済みます。余裕があります。しかし信仰はそうではない。その余裕のないところに切り込んでくるのです。
一生を共にしようとする相手に対して「もしよかったら結婚してください」とは言わないでしょう。そんな相手は信じられません。「是非わたしと結婚してください」です。それが誠実というものです。「もしよかったら、教会に来てみてください」と言っていたら、伝道にはなりません。「是非」と言われると、「仕方がないか。あれを言わないといい人なのだがなあ」と思われるかも知れません。しかし神の働きがその人に新しい現実を示してくれるのです。そして伝道が進みます。
今日のテキストは、山の上のキリストと、山から降りてきたキリストとがぶつかる現実を現しています。そして主イエスは続いて「人の子は、人々の手に引き渡される」とご自分の受難を予告しました。しかし弟子たちはそのことが何であるかを理解できませんでした。怖かったからです。不信仰のただ中、神が全くいないような所、信仰の力を無くすような所にキリストの告白を求めるのです。しかし私たちの現実はどうでしょうか。山と下とをうまく使い分けていないでしょうか。それは怖いから、分離して考えたいのです。しかしこの不信仰な時代のただ中に主の御支配は現れるのです。
2015/8/30 信仰のない時代