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2015年8月23日 聖霊降臨節第14主日礼拝
「これに聞け」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 9章28-36節
今日のテキストであるルカ9章においても「人の子は必ず多くの苦しみを受け・・・」という苦難の予告をした8日後、「祈るために山に登られた」のでした。このように苦難の道と祈りが結びついています。神から苦難の道を歩むように指示され、それを御旨として理解することと、その苦難の道を歩む力とは別のことです。それを結びつけるものとして祈りがあります。主イエスがそうであったように、私たちもまた、この知と力を結びつける祈りを欠かすことができません。
その際、主イエスは祈るためにひとりで山に登られたのではなく、弟子たちを連れて行かれました。それは将来、弟子たちにとって祈ることがいかに大切な基本であることを示すためであったでしょう。そこでイエスが祈っておられるうちにその姿が変わり、服が真っ白に輝きました。そしてモーセとエリヤが現れ、3人で話を始めました。これからイエスがエルサレムで遂げようとしていることについて話していました。それは主イエスがエルサレムで十字架にかけられる受難と復活の出来事についてです。ここに苦難と栄光が一対になっているということに気付かされます。主イエスもこの変容物語の直前に語っておられます。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。・・・わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」(9:33-26)
この言葉の中にも十字架と神の国の栄光とは決して切り離されていないことを告げています。苦難の十字架に対して神の国の栄光を約束しておられます。主が苦難の十字架の道を歩まれる決意を固めるべく、山で祈っておられるその時に、栄光の姿に変えられ、栄光の中に輝くのでした。
しかし私たちにはそのような立派な信仰も知恵も力もありません。ただの人間に過ぎないのですから。特別な者ではありません。この幻を見ているときにも「ペトロと仲間は、ひどく眠かった」(32)ように真理に遠い者です。この場に彼らが進んで行ったというよりも、主が、この幻を弟子たちに見せようとして連れて行ったと考えられます。それは将来の教会のためでしょう。
弟子たちの見た栄光のキリストの姿は一時的でした。このとき彼らは何を言っているのか、何をしていいのか、自分たちの置かれていることの意味を十分に理解できていなかったでしょう。だから「小屋を3つ建てましょう」と思いつきを言い、この出来事をだれにも話さなかったのです。その時は、このことの意味を理解することができず、後にはその意味の大きさを知り、福音書に記したのです。
彼らに対して、雲の中から声がありました。「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」。弟子たちが宣教に遣わされるとき、この経験が大きな力となり知恵となったのです。祈りの中で力と知恵を得たのでした。私たちは何をしていいか分からず、的はずれな方向に行くかもしれません。少しの苦難を前にたじろぎます。その時、「これに聞け」という言葉の通り、主により頼み、問いつつ歩むならば、今日もこの幻が私たちを苦難をも栄光に変える力として出会ってくださる。
2015/8/23 これに聞け