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2015年8月9日 聖霊降臨節第12主日礼拝
「満腹」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書 9章10-17節
本日のテキストである「給食の奇跡」物語はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのすべての福音書に記されているただ一つの出来事です。初代の教会にとってこの「給食」の奇跡がよほど重要なことであったと考えられます。まず、宣教に派遣された「弟子たち」「12人」が「使徒」として帰還しその報告をしています。「自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」。使徒言行録に記されているパウロやバルナバたちがアンティオキアに戻って来たとき「神がわたしたちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した」(使徒14:27)「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません」(ローマ15:18)というのに比べると対照的です。自分の業績に得意になっている様子がうかがえます。
得意になっている弟子たちに寂しいところ「ベトサイダ」に退くことを提案しました。群衆は、それと知ってイエスの後を追って来ました。追って来た群衆はいろいろな形で主イエスに救いを求めている人たちでしょう。主もまた彼らを見て「深く憐れみ」(マタイ14:14)他人とも思わず何とかしてあげたいと思っておられました。心身共に疲れ、飢え、渇きしている彼らでした。「イエスの後を追った」群衆は、ペトロたちが「すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:11)のに通じる行為です。いわば彼らは「従い、ついて来た」のです。
主イエスは彼らを迎え、その悩みを一つひとつ解決されました。夕方になり「12人」はこの人たちを解散させてくれるように提案しました。食事の問題があったのです。しかしイエスはこの提案を退けて「あなたがたが彼らに食物を与えなさい」と言われました。しかし彼らには「パン五つと魚二匹」しかありません。それぞれの自己責任で解決して貰うしかなかったからです。「あなたがたが」と言われるとき、主イエスはその貧しさをご存じです。そのうえで「わたしに任せておけ」とは言われませんでした。そのパンと魚を持ってこさせ、祝福されました。そして人々に分配するとみな満腹して余ったパン屑を集めると12の籠にいっぱいになったのでした。
パン五つと魚二匹「しか」ないのが弟子たちの現実でした。こんなもので5000人もの人の空腹を満たせるはずがない。と考えるのはごく当然のことです。自己責任に任せるのは合理的「解決」でしょう。問題は何も解決していません。だから何もしようとしないのですが、主は弟子たちに「あなたがたが」と働きを求められます。カナの婚礼でぶどう酒が亡くなったときに水を汲むように求めたのと同じです。水がぶどう酒に変わりました。水を汲んだ人がすごいのでもなく、五つのパンがすごいのでもありません。それを祝福してくださる方がいるのです。そこではパンが4つか5つかは問題ではない。すべてを献げる信仰が求められているのです。その主がいてくださるから、適当にあるいは何もせずにいるのではありません。主がいてくださるから喜んで精一杯水をいっぱい汲むのです。そこに信仰があり、人格的な奇跡・不思議なワンダフル満腹が起きるのです。それは今も変わらす主の約束です。その使いが使徒です。そこでは「わたしの報告」ではなく「主の業の報告」になります。主の手は短かろうか」(民数機11:23、イザヤ59:1-2),
貧しさがわたしを包む 悲しみと絶望が襲う 何もできない 申し訳ないことだ
そのままでいい そのままでいい 手を伸ばせ 主の救いがわたしを包む
2015/8/9 満腹