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2015年8月2日 聖霊降臨節第11主日礼拝
「イエス・キリストの救い」
松田 央 牧師
ヘブライ人への手紙 2章9-18節
を苦といいます。人生にはしよう生・老・病・死という四つの苦(四苦)があります。この場合の生とは生まれることです。
苦の根本原因とは何でしょうか。それは「諸行無常」という真理です。この世のすべてのものは、人間の命も含めて永遠に続くものではないということです。私たちは自分の存在が無常であるからこそ、キリストの救いを求めるのです。自分の存在が無常であることを毎日確認する人は、キリストの救いを真剣に求めます。財産や社会的地位や健康よりもキリストの救いを真剣に求めます。
私たちが毎日十字架のキリストに出会うとき、神の子の死を認識します。私たちはそのことを毎日確認することによって、自分自身の無常を心の底まで感じることができるのです。したがって、キリストの救いを経験するためには、キリストの十字架という世界に留まらなければなりません。十字架こそが、救いの道の入り口なのです。キリストは生涯において多くの試練を神から与えられましたが、最大の試練は十字架の苦しみであります。キリストはその試練をくぐり抜けて復活したので、永遠に生きていらっしゃるのです。キリストは永遠の存在であるからこそ、私たちに永遠の命を与えることができるのです。
キリストの復活を信じるためにはまずキリストの十字架の場面に留まることが必要です。一人で静かに祈って、十字架の場面に留まり、十字架につけられたキリストの姿と自分自身の姿を重ね合わせて下さい。ひたすら十字架の場面に集中して下さい。そうすれば、さまざまな苦しみや悩みから解放されて、また自分自身からも解放されて、キリストと一体となった自分を発見するでしょう。キリストが十字架の苦難を通して復活の栄光に到達したように、私たちも十字架の出来事を通過してはじめて復活の世界に到達することができます。
ペトロの手紙(一)3章18-19節(新約432ページ)によると、キリストは肉体においては死んだのですが、霊においては生きていたのです。つまりキリストの復活というのは、肉体において死んでいるが、霊の次元においては生き続けていることを意味しているのです。つまり、キリストは十字架で死んだ後、霊において生きていて、陰府にくだり、そこに閉じ込められていた人々を救ったということです。
ちなみに松尾芭蕉は、「やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声」という俳諧を作っています。まもなく死ぬ様子などもみじんも見せず、蝉はただひたすらに鳴きしきっているという意味です。この作品の冒頭には「無常迅速」という言葉が書かれています。すべての人間は無常迅速です。私たちは祈りにおいて一度陰府にくだらなければなりません。自分の心を陰府の世界に集中してください。そうすれば、この世の諸々の雑念や妄想から解放され、真実の世界が開けてきます。そこには復活したキリストがいらっしゃいます。
2015/8/2 イエス・キリストの救い