今週の説教要旨

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2015年7月26日                            聖霊降臨節第10主日礼拝 

「派遣」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書  9章1-9節

 福音宣教は「生ける神」の働きを伝えることです。自分の体験でもなければ考えでもないでしょう。あるいは自分の宗派や党派を拡大することでもありません。それでは私たちの体験は何の意味もないのでしょうか。否です。もしそうならば聖書の出来事すべて意味のない個人的体験に過ぎなくなるでしょう。そこに神の御支配を見、それを示す大きなしるしがあるのです。福音宣教は、どのようなところにも神の意志がありその支配が実現していることの証言であり告白です。その意味で、個人的体験は、ごく小さな出来事であるし、小さな体験ですが見過ごしにはできません。神様が共にいてくださり、今、御支配されることの宣言です。信仰はそこに立つことでありそこから出ることです。自分を示すのか、神の支配を指し示すのかの違いです。
 主イエスは、神の国の福音を告げ知らせるために12人の弟子を選び彼らを宣教に派遣しました。その際、「旅には何も持っていってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」と勧めています。共観福音書に多少の違いはありますが共に取り上げています。(マタイ10、マルコ3)そして彼らは「出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」(6)のでした。
 伝道者にはこのような覚悟が必要なのでしょうか。苦しいことにも我慢して、清貧に耐えなければならないと言われているのでしょうか。マタイとマルコではこの流れの終わりに「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ1042)とあります。主は弟子たちの行く末を自分のこととして心配しておられます。この言葉に出会うとき大きな慰めを受けます。
 ですからこの内容は、弟子の覚悟や根性や忍耐を勧めているのではないと思うのです。そうではなく、神様の支配が実現したということの場に立つことです。「思い悩むな。必要な物は神様が下さる。」(ルカ12:22以下)ことを信じて出て行けということでしょう。イスラエルの民が出エジプトで体験したように、イエスの弟子たちも、弟子であるために苦しみ祈る。そこで神に出会うでしょう。そこで冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は神の助けなのです。単なる御利益ではありません。
 私たちは何かをしようとするときに、まず資金計画を立てます。その保証を確かめます。それでも不安でしっかりとした保証人に頼ろうとします。そうしないと進めません。それ常識であり、間違っていないでしょう。しかし主の宣教への派遣は、そこから一歩踏み出すのです。その向こうにある神の御支配に目を注ぐことです。
 私事になりますが、50年前、私は牧師になろうと決心して、同志社の神学部に入学することになりました。前の年、中学の教師をしてお金が少し貯まりました。家からの仕送りは無いけれど、このお金さえあれば何とかなる、と思っていました。これから学生生活するのにとても大切な金でした。ある夜、そのお金を無くしてしまう夢を見ました。大慌て、どうしましょう。あのお金がなかったらこれからどうしていけばいいのか、絶望の中で目が覚めたのです。夢で良かった。しかし何かの意味があるような気がして考えました。これから私は神様の僕として旅立とうとしている。そこでこのお金が私の守り神になっていた。それを無くしたら何を頼りに行けばいいのでしょう。こう思ったとき、「金を持ってはいけない」というみ言葉に気づかされました。そのお金はすぐに無くなってしまいました。しかし4年間、いろいろな人に助けられて、何の不足もなく卒業することができました。それから今日までその恵みは途絶えたことがありません。
弟子たちの派遣に当たり「旅には何も持っていってはならない」と言う主は、「神に頼れ」と言われるのです。




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2015/7/26 派遣

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。