今週の説教要旨

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2015年7月19日                            聖霊降臨節第9主日礼拝 

「わたしに触れた者」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書  8章40-56節

 福音は、すべての人に与えられた喜びでありつつ、一人ひとりのものです。主イエスの福音は常に全住民が相手ではありません。いつも「あなたとわたし」一対一の関係です。見えるものではなく、見えないところ隠れたところにいる私を相手にされます。
 イエスと弟子たちは「向こう岸」に渡り、異邦人の地ゲラサで悪霊につかれた男をいやしただけで、その地方の人たちから去るように言われて、再びカペルナウムに帰って来ました。そこにはイエスを大歓迎する群衆が待っていました。
今日の物語はここから始まります。その中にヤイロという会堂長がイエスを待ち構えていました。会堂長とは、礼拝の世話をする責任者のような人ですが、単なる管理者というのではなく、集会の指導者、責任者、役員職を兼ねていたような人です。社会的に地位があり、人々から信頼されている人と考えられます。そのような人でしたが、12歳になる一人娘が命の危機に瀕したとき、イエスしかないと思いこみました。彼は群衆に押されながら叫びました「わたしの娘が死にそうです。是非わたしの家に来てください」と頼みました。自分の身分も恥もかなぐり捨ててひれ伏して頼むのに何のためらいも見せませんでした。恐らくこれまでに何度もイエスの教えを聞き、その活動を見てきたのでしょう。(注・ルカ4:16以下)
 彼の願いを受け入れ、彼の家に行くことになりました。一刻を争います。娘は死にかかっているのです。群衆に邪魔されて前に進めません。いらいらしながら「早く急いでください!」と叫びたいところでしょう。その時イエスは急に立ち止まり、後ろを見、周りを見渡しました。そして「わたしに触れたのはだれだ」と尋ねたのです。弟子たちは困りました。みんながイエスを一目見よう、話を聞こうと押し合っていたのですから。何人もの人が触っています。それでもイエスは「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出ていったのを感じた」と言いました。そこに一人の女性がいました。彼女は12年この方出血が止まらず、医者にかかり全財産を使い果たしました。彼女はイエスに出会い、群衆に紛れて、分からないようにそっと衣の房に触れたのでした。すると直ちに出血が止まりいやされたのです。驚いていると「だれがわたしに触れたのか」と言われ、隠しきれなくなって「わたしです」と申し出たのです。イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と彼女を祝福しました。
一方ヤイロは気が気でありません。 もう限界です。そこへ家の者が来て「お嬢さんはなくなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と告げました。ヤイロにとって、出血の止まらない女性に時間をとられるのを待つのは、忍耐の試練であったに違いありません。やっぱりか、だから急いで欲しかったのに。邪魔されたと思ったかもしれません。しかしもうすべてが終わった。煩いすらなくなってしまったのです。しかし主イエスへの信仰は、ここから始まるのでした。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる」と父親を励ましました。出血の女性に起きたことは、父親が神を信じさえすれば娘の上にも起きると約束されました。この約束に立つことが信仰です。主イエスは娘の手を取って「娘よ、起きなさい」と呼びかけられると、娘は起きあがりました。
この二つの出来事が一つのように記されていますが、キリストの救いが、信じる者の信仰と深い関わりのあることを示しています。すなわち救いは一人ひとりなのです。万民をマスで救うのではない。教会の人数が問題になります。100人、1000人いて教会になるのではありません。イエス・キリストを信じる一人ひとりが求められているのです。


                    「証し」             蠣崎 瑞恵 姉



教師同士の夫婦の間に、父の赴任先である北海道の田舎町でうまれました。
田舎が最高!と思っていましたが、都会の空気と雑踏がそばにあって、買い物がすぐ出来る
状況にないとイライラしてしまっています。

父親が苦手でした。家の中では王様。すべてを母にまかせ
自分の思うことが絶対。こんな大人にはならないと反抗していました。
が、家では、実際、父のようにふるまっています。

子供時代は、母との葛藤の毎日でした。
自主性のないわが子にイライラし、
子供の屈託のない質問にも真剣に理屈で負け惜しみのような返答する母。
忘れられないのが、授業参観の時の作文にお母さんのことが大嫌いだと発表しました。
そんなことを言い合えるのは、信頼関係が築かれている証拠!「お母さん嬉しい!」
うちの財産はいくら?「あなたたちに最高の教育を受けさせること!」
素直に悲しいとか、財産はないよ。とか本当の想いを口に出せるほうがいい
ちゃんとヒトの話しを最後まで聞き分かってあげる人になると思って、大人になりましたが、
そこそこに頑固で理論で押し通すような言い方をしてしまいます。
もっともです。。。相手が何も言えなくなります。。。

幼いころから教会学校に通い、中学生の時に洗礼を受けました。(この頃に榎本先生と出会っています)
人の助けになりたいと思い続けた子供時代
大学も社会福祉学科を選択しました。
が、いざ社会の扉を前にして、自分のなかの理想がちっぽけで恥ずかしいと思ってしまったのか
今でもよくわかりませんが、結局一般企業に進み、利益利益と追い立てられる毎日を送っています。

几帳面な両親に育てられ、何事も筋を通して、予定通りに事をすすめないと
気持ちが落ち着かない性格です。
が、結婚相手は、行き当たりばったりでその時の思いを優先してまっしぐらのチャカチャカした人を
選んでしまいました。

人の言うことに流され、状況をうらやましく思い、マネしてみたり、まあいいかと
流されてみたり。。。
すこぶる、いい加減で1本の生き方の筋みたいなものは通っていなかったように思います。

ただ、そんな生き方の私ですが、周りの人には「あなたは、人生ついている」と言われます。
もちろんそんなことは、本人は思っていないのですが、ハタからみるとそのようです。
人は、何かしらの理想を持って生きています。それはぶれることもあるだろうし
思うようにうまくいかない時もあります。
そんな時に頼れるところが私にはあります。
毎週、教会にきて自分の思いをリセットして、背中を叩かれて社会に戻る。
見えないものを信じて、確信できる強さ
見られている、守られているという安心感が
「ついている」とみせているのかな~と思っています。

最近は会社の帰りに見える、夕焼けや綺麗な月に
自然のありがたさや、バタバタした生活を振りかえる余裕を感じています。

王様だった父は、退職後から人としてどう生きるべきかを考え、地域貢献に励んでいます。
結婚に大反対していたカッキーが先に洗礼をうけたことも影響しているでしょう。
数年前に洗礼をうけ、几帳面さからか教会会計をまかされています。

あんなに自主性をおもんじていた母は、私とにたような性格の孫が
神様は守ってくれるかな~~とかいう様子をこんなに素直に神様を待てるなんて
可愛いわ~と言っています。

利益追求の企業の中にあっても、結局は人と人のつながりだな~と感じています。
従業員とお客様の関係。従業員同士の関係。
相手を思いやる言葉で会話する。どこにあってもそれは変わらないだろうと思います。

高校生の時から親元を離れて生活しているので、親兄弟より
夫との生活が長くなってきました。不思議です。
これから先もあるのかと思うと、ただただ不思議です。

色々な状況におかれ、その時々の色々な思いで人生をおくっていく。
その痛み、苦しさから神様に向き合えるチャンスはたくさんありました。
が、自分の中の理想を神様にしたてていたんではないかな~と思うことがあります。
どれだけ真剣に願って、打ち明けてきたろうか?
ちゃんと感じてこれただろうか?
「信仰」という意味を模索していく道をまだまだ歩むことになるだろうと
思っています。




音声をお聞きいただけます

2015/7/19 わたしに触れた者
       証し 蠣崎 瑞恵 姉

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また、信仰のこと、心に抱えている悩みごとなど相談したいことがございましたらご遠慮なくおいで下さい。
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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。