今週の説教要旨

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2015年7月12日                            聖霊降臨節第8主日礼拝 

「悪霊追放」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書  8章26-39節

 福音は、神様が私と関係を結んでくださったという事実から始まります。どんなにすばらしいことであったとしても、それが自分と関係のないことであれば福音にはなりません。本来、無関係の存在であるはずの自分が、キリストの贖いにより罪許されて「神の民とされた」ことに福音の喜びがあります。
ルカによる福音書は、4章14節から9種50節までの長い範囲をイエスのガリラヤ伝道の記事に当てています。サタンによる荒野の誘惑を退けた後、イエスは「霊の力に満ちてガリラヤに帰られた」(4:14)のでした。そして各地で神の国の福音を語り、病んでいる人々をいやし、悪霊を追放し、多くの伝道活動をされました。こうして、イエスのうわさはその地方全体に広まりました。ルカ福音書は、ガリラヤ伝道の終わりに当たり(9:49-50)弟子グループに属さない人たちがイエスの名を使って進めている悪霊追放の活動を紹介し、弟子たちはそれを止めさせようとイエスに提案しています。主はそれを止めないようにと言っています。この人物がかつてイエスとどこで出会ったかは分かりませんが、イエスの活動が弟子たちのあずかり知らないところまでに及んでいたことが伺え知れます。そして今日学ぶ記事と関係があっても不思議ではないでしょう。
ルカによる福音書8章は「婦人たちの奉仕」「種まきのたとえ」「ともし火のたとえ」「家族に対する態度」「嵐を鎮める主」などの記事が続きますが、それらは一貫して弟子たちを宣教に派遣するに先立つ実地教育の意味を持つ内容です。主イエスは弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と提案し大嵐に遭い、弟子たちは恐れ、不安の中で主に助けられます。今日のテキストの22-39には前の弟子たちと奇跡物語とは対照的に弟子たちは関係せず、弟子グループに属さない異邦人たちのことが主流になっています。ガリラヤ伝道の真ん中にこの異質な物語を置くことによって、将来の教会が異邦人への宣教に取り組む大きな布石となったと思われます。
「向こう岸に渡ろう」と提案し、大きな危険を押してたどり着いたゲラサという土地での出来事が記されています。「向こう岸」は単に地理的な意味にとどまらず、広く伝道の本質に関わる内容を含んでいるとも考えられます。一行が、ゲラサの地に着いたとき、一人の悪霊につかれた男がイエスのところにやって来ました。この人は長い間、衣服を身につけず、家に住み着かず墓場を住まいとしていました。町の人たちはこの人を監視し、鎖でつないでいましたが、効果がありませんでした。苦しみ叫ぶ人を墓場に排除することで人々は平和を得ていたのでしょう。
悪霊につかれたこの人が主イエスと出会い、悪霊追放をして貰いいやされ正気になりました。悪霊どもは豚の中に入ることを希望し許され、多くの豚が崖から落ちて死んでしまいました。町の人たちはその様子を見て驚き、恐ろしくなってイエスにこの町から出て行ってくれるようにと頼みました。一人の人が回復されることよりも、自分たちの平和が壊されることを恐れたのでしょう。そこでイエスは舟に乗って帰ろうとされました。すると悪霊どもを追い出して貰った人が、お供したいとしきりに願い出ました。しかしイエスは彼に「自分の家に帰りなさい。そして神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」(39)と従うことを許さず、家に帰り、そこで証をするようにと勧めました。異邦の地で、「イエス様に救われた」と証しすることはいかに大変であるかは予想がつきます。しかしこの人はそこを立ち去り「イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」(39)と記されています。
ここにイエスの弟子たちの知らないところで、イエスの名による悪霊追放がなされていた活動(9:49)との関係が浮かびます。主はその働きを認められたのです。関係のないものが救いに招かれた福音の広がりがここにあります。




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2015/7/12 悪霊追放

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。