今週の説教要旨

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2015年6月21日                                   聖霊降臨節第5主日礼拝

「よい地に落ちた種」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書8章1-21節

  福音は固定した教義ではなく動詞形であり、それを信じて従う人たちによって伝えられるべき生きた力です。主イエスの宣教には、12弟子に限らず多くの婦人たちも同行しています(2,3)。このことはルカによる福音書が「女性の福音書」とも呼ばれるゆえんです。そこには生き生きとして生きた福音の動きが感じられます。 
さてイエスは多くのたとえで神の国の宣教を明らかにされました。かつてご自分をさして、「一粒の麦」にたとえ、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」と言われました(ヨハネ12:24)。ご自分が十字架で命を捨てることにより、人々の贖いとして多くの実を結ぶことを示されています。
そして今日のテキストでは、種を蒔く人のたとえで、神の言葉を聞く者の有り様が述べられています。ルカによる福音書では、蒔かれた種と土地との関係が4種類の前置詞で区別されています。すなわち5節の「道端に」along、6節の「岩の上に」on、7節の「茨の中に」among、8節の「良い土地に」into、となっています。神の言葉である種が人に伝えられ、蒔かれるとき、道端、石地、茨の中、良い土地という4種類の有り様が見られます。
道端に落ちた種とは、神の言葉が語られるけれども、受け入れる信仰がなく、評論家のようにただ耳で聞いているだけで信じていない人のことです。どんなにいいことを言われても、自分と関係ありません。逆に「豚に真珠」(マタイ7:6)のようにかみついてくるのです。
石地に落ちた種とは、すぐに芽が出るのですが根がないので枯れてしまいます。神の言葉をきいて初めは感動し、心が燃え上がるのですが、困難なことが起きるとすぐに冷えてしまう人のことです。
茨の中に落ちた種とは、芽は出るのですが、茨も一緒に伸びてそれに覆われて消えてしまうのです。神の言葉を聞き、真面目に取り組もうとするのですが、すべてに良いようにしようと悩むのです。いろんな心配事があって、何が何だか分からなくなり実を結ぶことができません。
そして良い土地に落ちた種は、百倍の実を結びます。「立派な良い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」です。
このように見るとき、はたして4種類の人がいるのでしょうか。自分の中にこの4種類をみな等しく持っているのではないでしょうか。「良い土地」というのは、よく耕かされて柔らかく、石もなく、雑草も生えていない所でしょう。しかしそんなところはあるでしょうか。よく肥えた土地にはそのままにしておくとすぐに雑草が生い茂ります。どんなところでも石があり、草が生え、固まった土地でしょう。空の鳥も来て種を取っていきます。「良い土地」とはそれらを自分のうちに持ちながら絶えず戦っているところではないでしょうか。(サン・テグジュベリ「星の王子さま」)
主イエスはまた福音を光にたとえられました。福音の火をともされ光となったキリスト者でも、もし光の働きをしないなら光がともされたことが空しく終わってしまいます。せっかくともされたともし火を「器で覆い隠したり、寝台の下に置いたり」すると光が消えてしまいます。神の言葉を聞く私たちがその言葉をどう生活の中に生かしていくかが問われます。
イエスに会おうとして訪ねてきたお母さんと兄弟に対して、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人のことである」(21)と、ずいぶん冷たいことを言っています。これは家族はどうでもいいというのではありません。神の言葉に聞き従うことこそ家族を愛することであることを示しているのです。主の言葉を生きた言葉として生活の中で聞きましょう。


               「 証し 」      高橋 道子 姉

 私が脳梗塞を発病して丁度まる三年半が経ちました。
はじめは こんな恐ろしい病だとは思わず、ただ気分が悪い、左足のひざ下に力が入らず、フニャフニャして歩きづらい、左手も力が入らずフニャフニャして朝起きられず、どうしたものかと思い、近くにいる娘たちに電話をして助けを求めて、すぐに来てくれました。いつもと様子が違うというので、救急車を呼んでくれて、あっという間に乗せられて近くの病院に行きました。
看護師さんが3人出てきてくださり、MRIを撮ったりCTを撮ったり、そしてあっさり「入院していただきます」と言われ病室に連れていかれました。
すぐ12時間の点滴、4時間の点滴、6時間の点滴で何本かの管がついてしまい、病室の人になってしまいました。
 翌日には、まだ体がしんどいのに、午前と午後の2回のリハビリの生活が始まりました。毎日こんな生活が続いていきました。
 そんな中で、忘れられない思い出が一つあります。
冷たい風が吹くある日、「高橋さん、今日は病院の外を歩きましょう」と言われ、「はい!」とおとなしくついて歩きました。裏門から外へ出た時、コンクリートの壁の横に、20センチくらいの小さなバラの花が1本咲いていました。淡いピンクとも白ともいえない小さな花が、たった一本。寒さで枯れてしまった雑草の中で、風に吹かれて逆らうこともなく静かに揺れ動いています。
「あらっ!」と思って思わず足を止めて黙って見ていました。
看護師のお兄さんも私のすぐ横に立って、待っていてくださいます。風が大きく吹くと花も一緒に揺れて、風がやむと花もじっとしています。
しばらくして看護師のお兄さんが「癒されますね」とおっしゃいました。
「可愛いですね」とか言うのが普通かと思うのですが、「癒されますね」の言葉にハッと思い、顔をみるとニッコリ笑っていらっしゃいます。
 しばらく揺れ動く花を見ていましたが、「ありがとうございます。行きましょう」と言うと、「もういいですか?」と言ってくださり、また歩きだしました。
いつもより少し遠回りをしながら、病院の中に入り階段を上ります。手すりを両手でつかみながら3階までのぼり、病室に入り、「はぁ~」とため息をついてしまいました。
血圧をはかり、「また明日来ます」と言って看護師のお兄さんは出ていきました。
 その後 ぼ~っとして、いすに座ってぼんやり外をみていました。日が落ちてあたりはだんだん薄暗くなっていきます。
無意識に讃美歌を口ずさんでいました。

『我がたましいのしたいまつる イエス君のうるわしさよ、
あしたの星か、谷のゆりか、  何になぞらえてうたわん。
なやめるときの 我がなぐさめ、 さびしき日のわがとも、
きみは谷のゆり、あしたのほし、うつし世にたぐいもなし。

身のわずらいも世のうれいも、 我とともにわかちつつ、
いざなうものの深きたくみ   やぶりたもううれしさよ。
ひとは棄つれど君はすてず、  みめぐみはいやまさらん、
きみは谷のゆり、あしたのほし、うつし世にたぐいもなし』
(旧讃美歌512番)

人目につかない谷底で、草の葉かげに咲く一輪の小さな百合の花。病院の風に揺れるバラの花が重なって頭に浮かんでいました。
今までは教会のお花をいける時、いつも自然な美しく優しさがあり、また時には厳しく畏れがあり慈しみがあると感動していました。
この病院の中にいてもこの世光教会の皆様方の温かい祈りに支えられて安らぎがあり、守られているもの、心の安らぎは物質だけでは得られないもので心の豊かさと自分を見つめる信仰から生まれてくるものだと思いました。
人生様々ありますが、今の私は以前のように動くことはできないけれど、これからは私に与えられた務めを 祈りながら果たして行きたいと思いました。
今ある恵みは、私たちのために十字架にかかり復活されたイエス様によって与えられたものであることを思い、心から感謝いたします。


日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
厳かな雰囲気と温かみのある空間で、清々しい祈りの時間をお持ちいただけます。
小さなお子様づれでも安心してご参加ください。
また、信仰のこと、心に抱えている悩みごとなど相談したいことがございましたらご遠慮なくおいで下さい。
いつでも、皆さまのお越しを、心から歓迎いたします。
世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。