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2015年6月14日 聖霊降臨節第4主日礼拝
「永遠の世界」
松田 央 牧師
マタイによる福音書7章1-13節
今朝のテキストは「山上の変貌」と呼ばれています。変貌とは、イエス様の姿が変化したというよりも、本来の栄光の姿に戻ったということです。17章12節の後半では「人の子も、そのように苦しめられることになる」と書かれています。ここでも十字架の受難が予告されています。つまり、私たちはキリストの受難という出来事を通過しない限り、キリストの栄光の姿に出会うことができないのです。これが今朝のテキストの重要なテーマになっています。
旧約聖書の預言者であるモーセとエリヤが現れて、イエス様と語り合っていました。何を語っていたのかはわかりませんが、いずれにせよ、この地上世界において永遠の世界、神の世界が現れたということを示しています。このテーマは非常に重要です。イエス・キリストはこの世で永遠の世界をお示しになりました。神の国を経験するためには、キリストのように私たちも変化しなければなりません。ペトロのように、自分自身が変化せずに、神の国に入ることは不可能です。体も心も変化することが必要なのです。キリスト教ではそれを「聖化」と呼んでいます。東方正教会(ギリシア正教会)では神化という用語になっています。聖化にはさまざま内容がありますが、その内で重要なものは再生という概念であります。再び生まれる、あるいは新しく生まれるという意味です。ヨハネ福音書3章3節では「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と書かれています。キリスト者であるということは、神の言葉と聖霊によって生まれ変わるということです。キリストと共に死んで、キリストと共に復活するということです。このような経験が必要です。
驚くべきことですが、聖書にはどのようにすればキリストの救いを信じることができるのかということについて明確に書かれていません。信仰を持つことはいわば大前提になっているからです。そこで信じるための方法論として神学という学問が必要になるのです。神学は私たちの心の中にあるものを分析してくれます。それが本当の信仰であるのか、それとも信仰以前の知識や観念であるのかを分析してくれます。信仰とは自分の罪がキリストの恵み以外には絶対に許されないということに気づくことです。それ以外の方法では死の滅び以外にはないということに気づくことです。このような気づきというのは、単なる知識や観念ではありません。「キリストは私のために自分の命を犠牲にしてくださった」。このメッセージを今、自分自身に起こったこととして受け止めることです。そうすると、このメッセージが体の奥底にストンと落ちていくような心境になります。言い換えると、これは聖霊の働きを経験することであります。そのような感覚を持つことができるならば、今の自分は自ずと否定されます。
長年信仰生活を続けていると、単なる観念や思い込みを信仰として錯覚してしまうおそれがあります。何となく習慣的に礼拝に出席している。一度そのような習慣の流れを断ち切りましょう。聖霊の働きだけがそのような習慣の流れを断ち切ってくれます。
2015/6/14 永遠の世界