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2015年6月7日 聖霊降臨節第3主日礼拝 花の日・子どもの日
「罪の赦し」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書7章36-50節
イエス様がファリサイ派のシモンという名の人の家に招待されました。この人はイエスを何とかして理解し、和解したいと相当努力していると思われます。なぜならファリサイ派の人々はイエスのことを「大食漢で、大酒飲み」「罪人の仲間」(34)としてよく思っていなかったのに、イエスを食事に招いたのですから。彼は、イエスのしていることに知恵と権威を感じていました。多くの人が驚き、神を褒め称える様子を見て神の働きを認めないわけにはいかなかったのでしょう。「目の見えない人が見え、足の不自由な人が歩き、らい病を患っている人が清くなり、耳の聞こえない人が聞こえ、死者生き返り、貧しい人は福音を聞かされている」(22)からです。シモンというファリサイ派の人は、もしかしたらこの人はイザヤが預言したあの大予言者ではあるまいかと関心を持ったのでしょう。ファリサイ派の指導者たちは、イエスを「罪人の頭」とし、何とか亡き者仁しようとたくらんでいました。そんな中で、シモンは何とかして和解の道を探そうとしていたのではないでしょうか。彼としては最大限の譲歩をしてイエスを食事に招待したのでしょう。
イエスが食事の席に着かれました。そこに、この町で「罪深い女」とされている一人の女性が来ました。彼女は、イエスがファリサイ派の人の家で食事の席に着かれたことを知り、「香油の入った石膏の壺をもってきて、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」という事件が起こりました。イエスを招いたファリサイ派の人はこれを見て「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ」と考えました。彼女が「罪深い女」というのは、恐らくこの町では誰でもよく知っており、一見してそのような人であるのがだれの目にも分かったのでしょう。性を売りものにして生活していた人であったと想像されます。だとしたら、ここで「非常識」と思われるのは、シモンではなく、この女性の方ではないでしょうか。シモンばかりではなく他の人たちも異様なことに気付いていたのではないでしょうか。普通なら「何をするのだ。あっちへ行け。汚らわしい」と退けたかもしれません。しかしイエスはこの女性の行為をそのまま喜んで受け入れ、「あなたの罪は許された」(48)と祝福されました。ここに赦しの世界の力と真理が隠されています。
主イエスは、ファリサイ派の人に「シモン」と慈しみをもって語りかけます。「シモンよ、だからわたしはあなたに言うのだ、神は彼女の罪がどんなに多くであろうともお赦しになる。なぜなら彼女はあのひたむきな感謝を込めた愛をわたしに示したではないか。神に少しだけしか赦されていない者は、少しだけしか感謝を込めた愛は示さない。あなたはその愛にかけている。彼女の示した感謝は神に向けられている。彼女はあなたより神に近い」。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国にはいるだろう」(マタイ21:31)
神の愛は、私たちの常識を越えるものです。この女性は主イエスの愛に触れ、この町の常識を覆す大きな力に捕らえられたのでしょう。信仰の世界はその大きな力です。
2015/6/7 罪の赦し