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2015年5月24日 聖霊降臨節第1主日礼拝 ペンテコステ
「若者よ、起きなさい」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書7章11-17節
主イエスがナインという町に近づかれたとき、ある母親がひとり息子を亡くして泣いている姿に出会われました。彼女は夫を亡くし、続いてひとり息子を失った女性、自分にどんな罪があるのかしらと心痛めていたかも知れません。聖書には一切そのような示唆する言葉はありません。棺が運び出され大勢の町の人たちがそばに付き添っていますが、ここには深い同情が感じられます。ですからここに描かれているのは、特別な刑罰思想に捕らわれて怯えている人の話ではなく、およそ人として生きる者がどこでも経験せざるを得ない冷酷な死の現実に打ちのめされている人々のことです。
主イエスはこの母親を見て憐れに思い「もう泣かなくてもよい」と声をかけられました。(14)この「憐れに思う」(スプランクニゾマイ)と言う言葉は、口語訳聖書では「深い同情を寄せられ」と訳されており、共観福音書だけが、しかも主イエスについてのみ用いられている言葉です。そのことは人間の一般的な同情心や憐れみの心では及ばない愛の世界がここにはあることが伺えます。「もう泣かなくてもよい」と言われたのは、母親の涙を止めるばかりではなく、大勢の人々やこうした女たちの泣きわめく嘆きの儀礼そのものの中止を命じられたと受け止めることができます。
ここで気づかされることは、この母親は特別立派な信仰者であったということではないことです。彼女は泣いていますが、祈っていません。またそばにいる人々も特別イエスに対して信仰的姿勢を示したり、彼らの方からイエスに近づいたのではないということです。イエスがこの母親に目を留め、近づき、棺に手をかけ「若者よ、さあ、起き上がりなさい」(口語訳)と声をかけられたように、主イエスの方から母の痛みに近づかれました。人々の側には信仰が問われているわけでもなく、ただ死に捉えられた者の苦痛と悲劇だけが見えます。人々には死に象徴される絶望があるだけです。その人々に主の方から近づかれました。そして棺に手を触れ一方的によみがえりの言葉をかけられたのです。こうして死そのものの歩みを止めてしまわれました。
ナインの町外れに門から出てきた葬式の列と一人息子を亡くし悲しみに打ちのめされた母親。一方その行列に逆らうように立ち近づいて来られる主イエスの姿があります。その様子は、今の私たちがおかれている現実と共通するものがあります。自分のうちにはもう何も希望は残されていない。お手上げ状態です。そこには死が支配しているだけです。泣きながら歩いています。こちら側には見るべきものは何一つない。待つことさえ諦めた闇があります。教会のこと、家族のこと、自分自身のこと、どのことを考えても希望が持てない事実にぶつかります。やがて死が待っていることは避けられません。そのような私の所に主イエスの方から来てくださる聖霊の力、ペンテコステこそが起き上がる力となります。
2015/5/24 若者よ、起きなさい