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2015年5月17日 復活節第7主日
「権威」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書7章1-10節
今日の聖書では、カペナウムにおいて百人隊長が彼の部下が病気にかかり、イエスにいやしてくれるようにとユダヤ人の長老を通して頼むということから始まります。カペナウムは当時ヘロデ・アンティパスによって治められていたガリラヤにおいて最も重要な町の一つであり、そこには収税所がおかれ(5:27)、ヘロデ・アンティパスの守備隊としての駐屯地でありました。百人隊長とは100人の部下を持つ守備隊長です。彼に重んじられていた部下が重い病にかかり、死にかけていました。イエスがカペナウム二来られたと聞き、ユダヤ人の長老を使いに出しました。彼はユダヤ人ではなかったのですが、ユダヤ教に理解が深く、会堂を建てるのに私財を投げ出すほどでしたから、ユダヤ人から厚い信頼を受けていました。ユダヤ人は異邦人との交流を厳しく禁じられていました。そのことを知っていた百人隊長は信仰深いユダヤ人の長老を遣わして、イエスに自分の部下をいやしてくれるように頼んで貰ったのです。自分が行かないで人を遣わすということは、偉そうにしてという印象を受けますが事実は逆でした。自分にはその資格がないと思ったのです。
この依頼を受けてイエスは早速、彼の家に出かけました。家に近づくと今度は、百人隊長は友達を遣わして、「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えするような者ではありません。ですからわたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そしてわたしの僕をいやしてください。」(
6,7)と言わせました。これを聞いたイエスは感心し「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(9と言いました。そして遣いに行った人たちが家に帰ると僕はいやされていたのです。
ここで百人体調は「権威」について述べています。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下にも兵隊がおり、一人の者に『行け』と言えば行きますし、他の者に『来い』と言えば来ます。・・・」(8)自分の上にいただいている権威も、自分のもっている権威もキリストの前では何の意味もないことを告白しています。イエスの言葉に権威を見たからです。これは何にも勝る大きな喜びでした。があったからです。
「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである」(4:32)とあるように、イエスの言葉に権威を見たのです。「信仰は神の全能への参加である」(エーベリング『神の言葉の権威』)と言います。創世記には「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」とあるように、神にとっては言葉と行為、言葉と出来事は一体でした。ヨハネが「はじめに言があった。言は神であった。すべてのものはこの言によってできた」(ヨハネ1:1)ここに権威の源があります。この世の権威はその前では退けられるものです。その権威はやがて滅び、失せてしまいます。しかし神から来る権威にはだれも逆らうことができません。それに出会うことが幸いであり、それに依り頼むことが権威ある人といえるでしょう。
2015/5/17 権威