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2015年5月3日 復活節第5主日
「よい木にはよい実がなる」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書6章39-45節
「困った子ども」を抱えた家庭がなかったら、世光福祉会の「ベテスダの家」はなかったでしょう。その職員たちの生活も成り立ちません。ひとりで孤独な老人がいなかったら、「晴れる屋」も「ス・カサ」での出会いもなかったことでしょう。信仰者のくせに、と言われるような恥ずかしい自分でなかったら祈りを覚えなかったでしょう。だから必ずしも「無事」がいいのではないかも知れません。「困ったこと、それでいい」などと言っていられないことに出会い、何とかして欲しいという悲願からエネルギーが生まれるのです。
主イエスは、たとえを語られます。「盲人が盲人の道案内」「弟子は師以上でない」「目の中にあるおが屑と丸太」「木と実の関係」です。
この話をわたしたちはどう聞くのでしょうか。よい木と悪い木、どちらに自分をおきますか。主イエスはどうでしょうか。ます「盲目の道案内人」です。これは指導者として失格者のことでしょう。こんな指導者に従っていたら大変な悲劇になると、責任を問われて泣いている指導者のことです。
モーセはイスラエルの民を導いて出エジプトしました。シンの荒野に来たとき、民は食料がないと言って不平を言い出、モーセの指導に文句を言い出しました。「エジプトにいたときは肉鍋を腹一杯食べていた。こんなところで飢え死にさせるために連れて来たのか」と詰め寄ります。モーセは泣いてどうしていいのか分からず、神に泣きつくほかありません。主イエスもまた「盲目な道案内人」とされていたのでしょう。共に穴に落ち込む師と弟子です。
ここで「弟子は師以上の者ではない」とは、「盲目の案内人」「最低の者」と侮られ、十字架にかけられる師、弟子はそれより上ではないと言うことであり、決して名誉なことではなく、同じように人々から捨てられる運命に置かれていることを意味します。
「目の中に丸太のある者」とは、お先真っ暗という人です。何の解決も見いだせない、ただ絶望するしかない状態に置かれている人です。自分の体のことや家族のこと、将来のことで大変なことが起きると何も見えなくなってしまうのではないでしょうか。世界の大きな問題もしかりです。人のことなど言っている場合ではなくなります。「今、泣いている人たち」とはこのような人のことではないでしょうか。その丸太を取り除けること、それこそ大きな課題です。そこから目をそらしてはいけません。
「よい木からよい実がなる」この「よい木」とは何でしょうか。それは神の御支配のことであり、キリストに結びつくことではないですか。私たちはどんなに努力しても「悪い木」であり、そこからよい実が生まれ出たりしません。信仰は、その悪い木や悪い実を無くしてしまうことではないでしょう。それを神様に持っていき、キリストに結びつけるときに「よい実」が得られます。
2015/5/3 よい木にはよい実がなる