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2015年4月26日 復活節第4主日
「敵を愛せよ」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書6章27-38節
その内容は、無茶とも思えるものであり、必ずしも自発的なものばかりではなく、強制や義務も含まれています。イエスの愛を受けている人、その宣教に加えられている人たちに対して語られている言葉で「ただで受けたのだからただで与えるがよい」(マタイ10:8)というように、イエスの福音の現実を受けての応答としての律法です。
まず「敵」です。パウロはエフェソの信徒への手紙第二2:14-16においてイエスが「敵意という隔ての中垣を取り除き」「十字架によって二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼされ」たと告げます。「敵を愛せよ」とは、このイエスの実践に直結しています。イエスの十字架によって人間の中にあるあらゆる垣根は今や取り除けられました。「あなたを憎む人」は誰でもひとりや二人はいるでしょう。その人は嫌いで、話もしたくない、挨拶もしないかも知れません。主は「その人に親切にしなさい」と教えます。またあなたに「悪口を言う者」や「あなたを侮辱する者」のために祈りなさいと言われます。どうしてそんなことができるでしょうか。人々に罪意識を持たせるために、そんな理想を言われたのでしょうか。そうではない。それは主があなたにそうなさったからです。
次に「頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい」と言う。マタイによる福音書では「右の頬を打たれたら」となっています。すなわち右手の甲で打たれることであり、ひどい侮辱を意味します。その時他の頬を向けることはよほど忍耐が必要です。「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」相手の要求よりもおまけ付きのサービスです。「盗人に追い金」です。馬鹿の上塗りのようです。
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(31)。孔子の論語に「己の欲せざるところ、人に施す事なかれ」とありますが、さらに積極的な内容です。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな恵みがあろうか。罪人でも愛してくれる人を愛している」(32)と問いかけています。「罪人でも」という言葉が3回も繰り返しています。それほど「あなたがたは普通ではない、わたしとの特別な関係にある」弟子という思いです。
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」(36)とあるとおり、神の愛が先行しています。それを受けての応答的律法であることを忘れてはなりません。イエスの命令は、自己完結的な模範を示したものではなく、神の深い愛に包まれた者が、どんなにしても応えきれない感謝に裏付けられています。信仰には、義務も強制も伴います。それがない世界ではなく、神に縛られることも含めて大いなる応答の世界です。
韓国の元大統領金大中氏は1980年5月軍事クーデターにより軍法会議で死刑判決を受け、2年あまり過酷極まりない獄中生活から家族に当てた多くの手紙が出されています。
「愛する息子よ、お父さんは誰もうらまず誰も憎まない。お父さんがこうした心の変化を得るようになったのは、・・イエスのみ言葉と行動を思い、この道しかないことを思い知ったからだ」。(金大中獄中書簡)
2015/4/26 敵を愛せよ