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2015年4月12日 復活節第2主日
「いやされた人々」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書6章12-19節
今日のテキストによると、まず「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(12)のでした。誰ひとりいないだれの助けもない「山に行く」それはこの世の雑事を離れ、人を避けて祈るためです。ルカは「祈るため」ということばを18回も使っています。イエスはこの夜の祈りの中から神との交わりを得、神の子としての力を得ておられたのです。祈りは隠れた方との会話であり、見えない力の秘密です。人生の転機や、誘惑や危機に際し、イエスも度々山に上り祈りをされました。そこはこの世の一切を遮断する聖なる場です。義人とは間違いのない人のことではなく、神と深いつながりを持ちつつ祈る人のことであり、主イエスこそそのような人です。
「朝になると」イエスは弟子たちを呼び寄せ、その中から12人の使徒を選出しました。この使徒たちが主イエスの宣教の担い手であり、その使命を受けた人たちです。主はこの人たちを他の弟子たちとは区別し、特別の信頼と愛を込めて使徒として選ばれました。この中にユダの名があることは謎に満ちています。彼ははじめから裏切り者であったわけではなく、「裏切り者になった」のでした。彼は他の11人と同じように弟子の中からイエスに愛され、信頼されて選び出された人です。ユダが弟子から外されたのではなく、弟子のひとりであったことはキリストの信頼する弟子の中に12分の1御心を悲しませるものを含んでいるということでしょう。私たち自身の中に「使徒となる、可能性と「裏切り者となる」可能性を秘めているのです。「ひとりでいることのできない者は、交わりに注意せよ」(ボンヘッファー「交わりの生活」)と言います。イエスはひとりで山に行って祈られました。このイエスにとっても「人はひとりでいるのは良くない」(創世記2:18)ことでした。イエスはいつまでも山に留まらないで、使徒たちと共に山を下って平地に立たれました。山が聖なるところであるのに対して、平地は雑事で病と罪や悪霊の満ちたころです。
人々はイエスから「教えを聞こうとして」集まりました。彼らにとって主の言葉は命です。アモスは「それはパンの飢饉ではない。主の言葉を聞くことの飢饉である」(アモス書8:11)と預言しました。主の言葉を伝えることは、イエスご自身の主なる宣教であったし、また使徒たちに託したことです。そして今日もまた教会にその使命が課せられているのです。
また「病気をいやしていただく」ために集まりました。そして多くの人が癒やされました。「いやす」という言葉は、「仕える」とか「サービス」という意味があります。いやされた人々は、人をもてなすサービスへと遣わされます。そのことこそが主イエスの目的です。教会は山で祈りをし、そこから下りて平地で人と出会い、主に出会いいやされ、新たな群れとしてこの世に遣わされるのです。ルカにとって大切にしたことは、山と平地です。教会は聖なる場としての山と、み言葉を聞き、いやしていただく平地との往復にあり、キリストと共に働くのです。
2015/4/12 いやされた人々