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2015年4月5日 復活節第1主日 イースター
「安息の主」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書6章1-11節
こんなことは信仰とは関係ないから、教会では問題にしたくない。そのように思われることがあります。聖なる日には俗世間のことは持ち込まないように、と言う常識が働きます。誰かが自分の価値観や世界観を振りかざして、それを神の御心だと正義の御旗のように強制されると迷惑千万です。この考えはとても合理的であり、大切にしたいことです。しかし、それは神の御支配を制限するものであってはなりません。信仰は教会の中だけ、心の中の事柄の範疇に留まるべきという神を閉じ込めてしまうこととは区別しなければなりません。
「イエスは主なり」という信仰告白はある限定された狭い範囲だけで有効なものではありません。人の支配や知恵、都合を超えて告白されるものです。
ある安息日に、イエスと弟子たちが麦畑を通っていました。その時弟子たちが麦の穂を積んで手でほぐして食べました。これを見たファリサイ派の人々が「なぜ、安息日にしてはならないことを、するのか」と言いました。(2)安息日には労働してはいけない、というユダヤ教の律法規定に違反するからです。ファリサイ派の人たちの厳しい問いかけに対して、主イエスは弟子たちのことを責めず、旧約聖書の古事を用いて答えられました。(サムエル記上21:1-6)ダビデが食べてはいけないパンを自分も供の者にも食べさせたのでした。ダビデにその権威がそれを赦しました。主イエスは「人の子は安息日の主である」と宣言されました。麦の穂を安息日に食べるのはいいか悪いかという宗教倫理として問われているのではなく、主がそこにおられることの意味が説かれているのです。
また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられたとき、右手の萎えた人がいました。ファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、この人をイエスがいやされるかどうかを、注目していました。(7)イエスは、彼らの思いを知りながら、手の萎えた人に「立って、真ん中に出なさい」と言い、「手を伸ばしなさい」と意われました。この人が言われたようにすると、手が元どおりになりました。ところがこのことでファリサイ派の人々は、「イエスを何とかしようと話し合った」(11)のでした。
イエスのおかれた状況は極めて危険でした。この出来事以来、イエスへの反対運動は激化して、イエスはその命をねらわれるようになったことを共感福音書は共に記しています。(マタイ12:4,マルコ3:6、ルカ6:11) しかし、主は退かれません。彼らの思いを知りながら一人の悩みを引き受けられたのでした。彼を真ん中に立たせ、片隅で行われたのではなく、堂々と明確な主張をもって実行されました。右手の萎えた人とは、人生の利き腕の病む人であり、前途の希望も夢も奪われた人でしょう。その人に「手を伸ばしなさい」と命令されます。赦しの命令です。それは主イエスだから言えることです。律法は古くて無用であるということではありません。主がおられるということです。
教会で、何をなすべきか、今日的課題は何かと問うならば、自分のことが正しいのではない。不完全であり、相対的な者です。それを絶対化できません。しかし主が来られたとき、その相対が主によって絶対に帰られるのです。それは「イエスは主なり」という告白でしょう。イースターを迎え、主の命令に従いましょう。
2015/4/5 安息の主