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2015年3月22日 受難節第5主日
「罪人を招く主」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書5章27-32節
ルカによる福音書を学んでいますが、先週学んだところでは、中風の人が床に乗せて運んで来られた話でした。イエスのところに行こうとしたが、群衆に遮られて行けませんでした。そこで友人たちは屋根に上って瓦をはがし、この中風の男をイエスの前につり降ろしたのでした。イエスは「この人たちの信仰を見て」罪を許し、病をいやされました。(5:17-26)
今日のテキストは「その後、イエスが出て行って、レビという徴税人が座っているのを見て、『私に従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がりイエスに従った」(27)とあります。状況は前の出来事と対象的です。前者は困難を乗り越えて(常識を破り)イエスに近づいたのに対して、後者はイエスの方から律法を犯し、徴税人レビに近づきました。(レビ記19:2)このことは、レビにとっては「何もかも捨てる」理由と考えられます。すなわちレビが、捨てる前に、「何もかも捨て」近づかれた主イエスがおられました。
当時の徴税人は、ユダヤ人からは最も嫌われていた「罪人」でした。ユダヤはローマの支配下にあり、占領国であるローマのために重い税金を納めなければなりませんでした。ローマはその徴税の仕事をユダヤ人にさせました。反感をそらすためです。そのために大きな権威と利得を与えてユダヤ人にやらせていました。徴税人は、路上で歩行者に停止を命じ、包みを開けさせ、ほとんど好きなだけの額を要求することができました。払うことのできない場合には、途方もない高利子の借金をさせ、暴力も辞しません。そのための「平和維持軍」としてローマ兵が常駐していました。ユダヤ人にとって、徴税人は裏切り者であり、一緒に食事をするなど赦されません。交わることすら同類者と見られ、嫌われていました。
徴税者というと、律法学者から差別を受けているかわいそうな被害者であり、律法学者は頭の固い保守的な差別者のようなイメージを持ちますが、そうではありません。むしろ律法学者の多くは人から尊敬されており、常識的であり、旧約の律法を重んじる「人格者」だったでしょう。その人たちは「義人」であり、「健康な人」たちでした。この世界には徴税者のいるところではなく、両者の間には大きな隔てがありました。
主イエスはその隔てを壊して入られたのです。そのことによって、イエスご自身が「罪人の仲間」にされ、見栄えのしない「病人」になられたのです。罪のない神の独り子が、罪人である私のところに来て「従いなさい」と声をかけてくださった。この現実に出会ったレビは、この人にこそ救いがあると確信したのでしょう。自分の家に仲間を呼んで大宴会を開きました。彼にとって「あらゆるものを捨てて」従っても足りないほどの喜びでした。彼の人生が180度の方向転換をしました。自分中心で生きてきたことを転じ、神の方に向かう悔い改めが起きました。
「医者を必要としているのは健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(32)主イエスは、悔い改めを必要としない「正しい人」を招かれません。罪に苦しみ救いを必要としている病人を招かれるのです。
2015/3/22 罪人を招く主