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2015年3月8日 受難節第3主日
「イエスのいやし」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書5章12-16節
イエスがある町におられたとき、全身がらい病にかかった人に出会われました。この人は極度に進行した病を負っておりこの町にやて来たようです。ユダヤ人の規定により彼の住まいは町の外にありました。やむなく町に出入りするときは、、「わたしは汚れた者、汚れた者です」と叫びながら歩かなければなりません。(レビ記13:45)他人と接触して病が移らないようにするため、自らの身をこの屈辱にさらさなければなりませんでした。彼に触れる人も同じく「汚れた者」とされました。日本におけるハンセン病の方々もそれ以上に厳しい者がありました。 「泣いて泣いて、泣いて義足の 立ち上がり」(現代のヨブたち)
このようにして町の中にやって来たのは、主がおいでになると聞いたからでしょう。一切の煩いを捨てて主イエスの前にで、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(12)と願いました。自分の身に起きていることは、深い神の御心であり、またそれを清めてくださるのも御心であるという深い信頼と心低い嘆願です。主は口を開く前に手を差し伸べてその人に触れられた。言葉に先立つこの行為、そこに主イエスの深い愛を見ます。
次いでイエスは「よろしい、清くなれ」と言われました。すると「たちまちらい病は去った」のでした。「清くなれ」は、神の意志と支配の宣言であり、サタンの支配が去って、彼の上に主の支配が勝利することです。過去の一切が今や切り離され、主の支配のもとに生きる自由の生が始まったのです。 痛み経て 真珠となりし 貝の春 (沖縄愛楽園、青木恵哉)
ここに二つの律法違反が見受けられます。それは「全身らい病にかかっている人」が人の中に出て来たこと。もう一つはこの人に主が手を差し伸べて触れていることです。このイエスの行為は明らかに律法に違反しています。ここからイエスご自身が汚れた者になるのです。しかし主はここで律法に違反することによって律法を成就させたのです。(マタイ5:17以下)律法は人のためにあるので人が律法のためにあるのではありません。(マルコ2:7)イエスは人を救うために律法を破り、罪人となられました。そのことにより律法学者たちから憎まれました。(ルカ6:11)この病人は、イエスに触れてもらい「清くなれ」と言われて、初めて自分を自分受け入れることができ、自己回復ができました。主イエスはこの人に、人々に話すことを禁じ、ただ、律法に従い、その体を祭司に見せてるように命じました。主が共に祭司(役所)に行って、彼の社会復帰の手続きをしてさっているように見えます。
さて、イエスのうわさがますます広まり大勢の人が「教えを聞いたり病気をいやしていた炊いたりするために集まって来た」(15)のでした。しかしイエスは、彼らを避けて人里離れたところで祈っておられました。(16)これはいやしを求める大勢の人が間違っていて、祈りが大事であるとを教えているのではありません。そうではなく、主は疲れ、人々の期待にもかかわらず自分の限界を感じ、祈りの場に逃げ込まれたのではないでしょうか。痛み、疲れ、泣かれる主。これがイエスを祈りへと逃れさせているのです。「逃れの場」としての祈りです。本来教会はそのようなところでしょう。いやしを願う私たちは、主の痛みを覚えましょう。
2015/3/8 イエスのいやし