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2015年3月1日 受難節第2主日
「イエスの祝福」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書5章1-11節
ゲネサレト湖畔の漁師たちは一晩中網を打ちましたが何もとれず、失意の中で疲労と睡魔に襲われながら網を洗っていました。教会の伝道についてもむなしさを感じることが少なくありません。一生懸命努力しても結果が思わしくなく、かえって落ちているという現実にぶつかります。むなしく網を洗う、そこに人間の業の現実と限界を見るのではないでしょうか。
そんな時イエスが舟に乗り込んで来られます。群衆に話をするために舟を出して欲しいと言い、その後「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしてみなさい」と言葉がかけられました。これは同情ではない。励ましでもない。現実へのみ言葉の挑戦です。人間の知識や体験の延長線上に信仰があるのではなく、逆に徒労の現実に切り込んでくる。漁師たちは知っています。今日はだめと。しかも夜ではなく昼間には魚はかからないと。その上疲れ切っています。網を洗ったところです。専門家であるペトロにはとうてい理解できないことであったでしょう。み言葉は現実に挑戦してきます。その言葉にかけていくのが信仰です。
信仰は、認識でもなく、知識でもない。また経験でもありません。み言葉に従う決断こそが信仰です。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と現実に挑戦してくるみ言葉に応答する決断の勇気と冒険が信仰には必要です。現実の厳しさに埋没して、岸にじっと留まるのではなく、み言葉に従って沖へ漕ぎ出し、網を降ろす決断が求められます。信仰とは、書斎の中で静かな瞑想ではなく、み言葉に従う決断です。貰ったり、聞いたり、見たりするだけでは力になりません。み言葉に従って生きるとき、むなしく、堅い現実は掘り起こされて豊かなものとなり、生き返り、無意味な現実が意味あるものとなります。み言葉に従うとき、おびただしい魚が捕れるのです。それを共に経験した人は一生の友となるでしょう。
み言葉に服従し、圧倒的な力を体験するとき、いい気になり、自慢するのではなく、告白へと導かれます。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」(8)と告白しています。ここでペトロのイエスに対する呼称が「先生」(5)から「主よ」(8)に変わっているのに気づきます。シモンはおびただしい魚がとれたとき、自分の経験を誇るのではなく、罪の告白をしました。恩恵の体験は罪の告白へと導きます。罪は自覚するものではなく、恩恵の体験の中で起きるものです。み言葉に従う者は自分の努力を自慢するのではなく、謙虚な罪の告白に導かれます。
罪の告白に続いて祝福の言葉が与えられました。「恐れることはない」神からの命令に従い、神の約束を信頼する信仰者の生活は、一切の恐れから解放されます。徒労の現実の中にあって、神の言葉に一切を委ねて決断するとき、豊かな祝福が与えられて、恐れることなく生きていくことが許されます。
信仰はまた委ねることでありつつ自己放棄でもあります。今許されて「すべてを捨てて」「人間をとる漁師」として祝福の道を歩みす教会の姿がここにあります。
2015/3/1 イエスの祝福