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2015年1月25日 降誕節第5主日
「イエスの洗礼」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書3章21-22節
バプテスマのヨハネは、ヨルダン川の岸辺で悔い改めの教えとバプテスマを授けていました。彼によれば、人間は外面的な清めや血筋によって清められるのではなく、悔い改めの心によって清められると説きました。この考えは、当時のクムラン宗団の考えと共通していました。彼らは、特別な律法を厳格に守る禁欲主義の宗団で、一般の人たちと隔離して、自らを「清い民」(エッセネ派)とし、特別な共同体を形成していました。それとは違ってバプテスマのヨハネは、詳細な律法規定に従って生活をする共同体を設立することをせず、すべての人々に対して、悔い改めることによって終わりの時の「神の民」とされると説きました。主イエスは、宣教活動に入る前にこのヨハネからバブテスマをお受けになりました。罪なき神の子イエスがなぜ悔い改めのパプテスマを受けるのかという疑問が湧きます。
そもそも洗礼には、罪を清めるという意味があります。聖書では、人はアダム以来、原罪を負っており、どんなに正しい人でも神様の前では、罪ある存在とされています。その罪を清めるために洗礼があります。ユダヤ人は出エジプトして神の約束の地、カナンに入るとき、ヨルダン川を渡りました。それがユダヤ人の民族としての洗礼でした。ヨハネはそのユダヤ人に悔い改めの洗礼を授けていたのです。しかし、それは備えに過ぎません。神の側からの贖いが必要です。ヨハネはその「道備え」であり、「荒野で呼ばわる声」にすぎず、「その方の履き物のひもを解く値打ちもない」(3:16)と自分を限定してメシアを待つことを強調します。そのキリストがヨハネから洗礼を受けられました。それは神の独り子であるメシアとしてではなく、悔い改めを必要とする一人の罪人としてヨハネの前に出られたのです。ルカによる福音書は、この記事に続いてイエスの系図を上げていますが、マタイによる福音書ではアブラハムからイエスまでのものであるのに対して、ルカはアダムまで遡ります。これはイエスの救いがユダヤ人にとどまらず、人類全体に関わるものであることを示しています。洗礼を受けたイエスに聖霊が鳩のように下り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(22)と告げました。罪許された洗礼の後、「心に適った者」とされました。
「わたしは悔い改めなければならないような罪を犯していないから洗礼は受けません」という人がいます。また「まだわたしは罪深くてとても洗礼を受ける資格などありません」という人もいます。キリストが洗礼を受けられたことを思いましょう。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を低くして、僕の身分になり、人間と同じ者となられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)とありますが、ここにキリストの姿がはっきりと示されています。すなわちキリストは「義人」としてではなく「罪人」として世に来られ、「罪人」としてこの世を去られたのでした。
イエスの洗礼はその象徴です。このわたしの隣に来てくださったのです。
2015/1/25 イエスの洗礼