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2015年1月11日 降誕節第3主日
「悔い改めよ」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書3章1-14節
予言者イザヤは「主の道筋をまっすぐにせよ」と預言しました。(イザヤ書40:3)それを引用してバプテスマのヨハネは群衆に悔い改めを迫っています。敵と味方に分かれ、争いが絶えません。民族や宗教をひとくくりにして敵と味方に分け、敵を許さない「正義」が叫ばれます。これは単純で分かりやすいようですが、何の解決も見られないでしょう。
ヨハネは、主イエスの救いの前にその道筋を整えるために、ユダヤ人に罪の赦しを得させる「悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えました。もともとユダヤ人は自分たちのことを「我々の父はアブラハムだ」とし、律法を知らない異邦人と区別していました。ユダヤ人になるためには悔い改めの洗礼を受けなければなりませんでした。ヨハネは、そのユダヤ人に洗礼を授けたのでした。彼らのことを「蝮の子らよ」(神の敵対者の意味)と呼び、そのままでは救われないことの自覚を迫るのでした。
ヨハネは「悔い改めの実を結べ」と正義の実行を勧告します。「下着を二枚持っている者は、一枚も持っていない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(12) と。これまで、有り余っている人の隣に、必要な物を欠く人がいても何も感じなかった人が、何かを分け与えるというように転換を呼びかけたのです。また、徴税人には「住民から規定以上に税を取るな」とし、兵士には、民を脅して物品を要求したりせず、「自分の給料だけで満足せよ」と勧めました。預言者アモスは「善を求めよ、悪を求めるな。おまえたちが生きることができるために」とし、「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」(アモス書5:14,24)とあります。「悔い改めの実」と言えるでしょう。
主イエスは、私たちの罪の赦しのために十字架にかかられました。それは代償の要らない無条件の赦しです。キリストは自らを打つことにより、敵である私たちの罪の贖いとなられました。もう自分を責めることはありません。キリストがお許しくださっているのに、どうしてまだ罪に留まるべきでしょうか。福音は人格的応答の中に伝えられるものです。そして福音は、神からの一方的な憐れみでありつつ、同時にそれに備え、応答することが求められます。神様は人間と無関係に神であられるのではありません。
悔い改めは、主の道筋をまっすぐにすることです。自分の義を振りかざすのではなく、神様の御支配に従うことです。主イエスは、自ら悔い改めを身をもって示してくださった方です。すなわち自らを十字架にかけることにより罪を贖ったのです。これは「神の悔い改め」と言えるでしょう。罪無き神の悔い改めがイエスの十字架に現れました。悔い改めは、「悪人」がすることで、「善人」には関係のないことではないことがこれで示されるのです。
パリでテロが起きています。誠に悲しむべきことです。フランスから便りがありました。それによると、テロに抗議し、多くのデモが起きていますが、「私たちフランス人の連帯は暴力よりも強い」というプラカードが多い中、ほとんどに「イスラム」とか「アラブ」とかの名詞が見られないそうです。これはすばらしいことだと思います。テロのためにどれほど多くのイスラム教徒やアラブ系の人が傷つき心を痛めていることでしょうか。彼らのほとんどは心優しく、素朴な人たちだと思います。敵対と暴力からは和解が生まれません。
キリストの愛に応えて「正義を洪水のように流れさせ」「悪を求めず、善を追い求め」たいと思います。
2015/1/11 悔い改めよ