今週の説教要旨

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2015年1月4日                              降誕節第2主日

「少年イエス」 

榎本 栄次 牧師

ルカによる福音書2章41-52節

 明けましておめでとうございます。人生は旅にたとえられます。計画通り順調に進むこともありますが、逆風に吹かれたり、目標を見失ったり、迷い込んだりすることもしばしばです。今年もきっとそのような経験を重ねることだと思いますが、その時は主に出会うときであり、その都度主に立ち返るように心がけたいと思います。
 少年イエスの記事をルカだけが記しています。この話はいわゆる偉人物語ではなく、福音の本質を示そうとする内容が含まれていると思います。少年イエスが立派に成長する様子がうかがえますが、そこでの思わぬアクシデントが両親を襲いました。この物語で、両親に焦点を合わせて考えてみたいと思います。イエスが12歳になったとき、両親は習わしに従って、過ぎ越し祭にイエスを連れてエルサレムに上って行きました。過ぎ越し祭に続きパンの祭りもありが7日間が終えて、帰路に着きました。少年イエスはエルサレムに残っていたのですが、両親は気付きませんでした。村の人や親戚中にいるものと思い、一日分の道のり行ってイエスのいないことに気付きました。探し回ったけれどもどこにもいません。仕方なくエルサレムに引き返しました。当然ながら両親は、顔色を変え気が狂ったようにわが子を尋ね廻ったことでしょう。マリアの表情は混乱の中で見失った幼児を探す世の母親と何も変わるところはなかったことでしょう。どんなに不安になったことでしょうか。いいことは想像しない。初めは少し待てば来るだろうと思っていたが、果たして何か事故に巻き込まれたのではないか・・・と想像しながら3日間、絶望のように駆け回っていたことでしょう。
  3日後、ふと見ると街角に人が集まっている。何があったのだろうかと見ると、イエスが学者の真ん中に立って、話をしたり質問したりしているを見つけました。両親は驚きましたが、それは「聞いている人はみな、イエスの賢い受け答えに驚いていた」からではありません。わが子を捜すのに夢中であった母にとって、見つけた息子の姿の方が大事であり、彼がどんな話をしているかなどと言うことは問題ではなかったでしょう。だから母の方から叱責のように口火を切りました。「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(48)
 それに対して少年イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(49)と答えています。この言葉は両親には理解できませんでした。「なんということを言うのか」と思ったのではないでしょうか。しかし、この言葉にこの出来事の中心があります。この物語の主人公はイエスではなく、イエスを捜し廻った両親にあるのです。ここには論理の飛躍があります。両親の叱責は当然です。その当然から離れて、主を「父の家」に捜すことことです。ここにポイントが置かれているます。少年イエスの偉人物語としてではなく、「静まりて我の神たるを知れ」(詩編46)の信仰に帰ることです。
 私たちは人生で、迷い、失い、理屈とは遠い出来事に出会います。その時主イエスが見えなくなります。祈っても聞かれない。礼拝にでても心がわかない。ただ惰性で毎日を送っている。みんなの中にいれば大丈夫。親戚や家族がいるから、と安心していたらそれらが誰も頼れないときが来るのです。その時私たちは毒に行くのでしょうか。父の家に種を捜すべきなのです。 



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2015/1/4 少年イエス

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。