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2014年12月7日 Ⅱアドベント 待降節 第2主日
「マリアの賛歌」
榎本 栄次 牧師
ルカによる福音書1章46-56節
キリスト以前をB.C(Before Christキリスト以前)とし、それ以後をA.D.(Anno Domini主の年)と呼んでいます。このことはイエスのお誕生により人類の歴史は全く変わったということでしょう。実際の歴史は何も変わらずそのまま続いているのですが、にもかかわらずすべてが新しくされたということがクリスマスです。キリストの誕生は私たちの存在を根本から転換させる出来事を意味するものです。
今日の聖書の箇所には二人の女性の出会いが記されています。そこにはエリサベトとマリアです。この二人の出会いは偶然ではなく、その裏に神の深いご計画が隠されています。その他にもう一組の出会いが記されています。それぞれの胎内に宿るヨハネとイエスです。この二人が世界と根本から変革する神の力なのでした。マリアとエリザベトは、その命を宿し、ここで出会い、胎動する喜びが響き合うのでした。二人の母親は、人間の無力さをその身に受けている人たちです。ここでは男性は排除され、いたいけな少女と人生のたそがれを迎えた老女がいます。二人とも人間的には優れたところがあるわけでもなく、むしろ差別に苦しむ貧しい二人でした。それはまさに「思い上がる」ことができない「身分の低い者」であり飢えている者」であり「悲しんでいる者」の代表です。
マリアの賛歌は、その低い者が高められた喜びです。逆に「思い上がる者」「権力ある者」「富める者」たちを引き降ろすというものです。人の世の支配から、神の意志による支配へと転換する驚きと賛美です。なんの資格もない身分の低い女が、神によって力を与えられ、高められた幸いな女へ換えられたという自己認識の転換があります。自分の境遇の中に神の力と聖性と憐れみを見出したのです。自らは無力であり、何も成し遂げられないにもかかわらず、自分をかけがえのない存在として見直す信仰が与えられたのです。人との比較で自分を低い者とし劣等感に悩む者が、神の力により高められ、これまで高いと思っていたことが逆に低いこととされるのでした。
マリアの基本的姿勢は、「わたしの魂は主をあがめます」(46)という言葉によく表れています。「あがめる」とは、主を大きくして、自分を小さくすることです。人間の不信仰は、自分を大きくしようとするところにあるでしょう。思いを高ぶらせる、権力を目指し、富みたいと願うことで世俗の価値観の奴隷になってしまいます。キリストによって、ただ自分の中に何も誇るべき者がないことを認め、神により頼まざるを得ない者が出会う価値転換です。否、勝ち誇っている者が引きずり下ろされる価値転換を経験することになるのです。この意味で、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」(6:20)と言い、また、「わたしが弱い時にこそ強い」(コリントⅡ)と語られています。逆に「しかし、富んでいるあなたがたは不幸である」(24)とも告げるのです。
それは「わたしの時」から、「神の時」への転換です。まぶたの天使と言われた水野源三さんは「生きている 生かされている 歯が痛き手足がかゆき咳が苦しき」と詠っています。歯の痛さ、手足のかゆさ、咳の苦しさは、いずれをとっても耐えがたい現実です。それは上昇志向の価値観から見れば、大きなマイナスでしかないでしょう。しかし水野さんによれば、このマイナスの中に、絶大な神の恵みを見るのです。この痛みこそが生きている証しであり、自分を生かしてくださる神の恵みのしるしという賛美になるのです。
2014/12/7 マリアの賛歌