今週の説教要旨

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2014年11月16日                           降誕前 第6主日 子ども祝福礼拝

「価なしに飲むがよい」 

榎本 栄次 牧師

ヨハネの黙示録22章

 聖書のメッセージは、「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)から始まり、「主イエスの恵みがすべての者と共にあるように」(黙示録22:21)で閉じられています。それは人類の救済史であり、救いへのメッセージです。神の国に入るのに資格は要りません。主イエスは「幼子のようになれ」と教えられました。(マタイ18) ただイエス・キリストを信じる信仰によるだけです。それでも人は何か資格が要るのではないかと思い、派閥をつくったり、資格を問うたりしますが、それは余計なことです。私たちの祈りの終わりに「イエス・キリストの名によってアーメン」と称えますが、イエス・キリストの名によって神の国に招かれるのです。私たちの努力や責任は全てその恵みへの感謝の応答であり、そこにおいてのみ意味があるのです。
 いよいよヨハネ黙示録の最後の章から学ぶときになりました。黙示録というのはギリシャ語でアポカリュプシスと言い「覆いを取る」という意味です。新しいエルサレムが、今や覆いを取られて私たちの前にその輝かしい姿を現しました。そこには「命の水の川」があり「年に12回実を結び、その木の葉は諸国の国民の病を治す。もはや呪われたものは何一つない」(2-4)のです。そして「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」(17)と言われています。「もはや、夜はなく、ともし火の光りも太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは代々限りなく統治するからである」(5)。ともし火も太陽の光も要らない。神ご自身が私たちの光となって下さるからです。主は「明日のことを思い煩うな」と言われました。必要なものを満たしてくださるからです。私の世界から神の世界を計っても理解できません。神の世界から自分を計ること、まず神の国と神の義とを求めることから信仰は始まります。
 それではその様に、神の光によって闇が克服されるのは何時、どこで起きるのでしょうか。それは遠い将来のことではなく、「見よ、わたしはすぐに来る」(7)と繰り返し言われています。私たちのすぐ傍にその時が迫っています。時間、空間を超えて、今ここに御臨在される神であり、その御支配が実現しています。同時にまた、やがて来たるべき方として「主よ、来てください」と祈り備えるのです。
 初代教会の人たちが大変な迫害の中で困難に負けずに戦うことができたのは、「間もなく主が来られる」という再臨信仰と「主は共におれれる」という現在信仰とがあったからです。私たちは常にこの約束を待ちつつ、今「イエスは主なり」と告白しつ主の恵みをいただくのです。八方ふさがりでどうしようもないときにも、主にあって希望に生きられます。主に助けを求めると、主は来てくださいます。主の時が私たちの中に入り込んでくるのです。
この恵みは誰にでも与えられる恵みです。「価なくして飲むがよい」と奨めてくださいます。それは、神の国に入るのに資格はいらないからです。人間としての価値のない者が神の子として招かれることです。なぜならば主が十字架にかけられたからです。十字架刑というのは人間に値しない者、最も卑しい者に課せられた極刑でした。主がその罪を負ってくださった故に、私たちは何の代価も払わずに、価なしに飲むことが許されているのです。
予言者イザヤも「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ」(55)と言っています。神様が、聖書を通して私たちに語りかけてくださる福音は、なんとありがたいことでしょう。神の宴に招かれています。
 
来て食らえ 金なき者も飲むがよい 神の宴に資格はいらぬ

これが聖書全体のメッセージです。


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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。