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2014年11月9日 降誕前 第7主日 障害者と共にある礼拝
「新しいエルサレム」
榎本 栄次 牧師
ヨハネの黙示録21章9-27節
信仰には、私生活に深い関わりをもたらし、その人生を全く新しくする力があります。
ヨハネ黙示録21章には二つのテーマがあります。一つは1節から8節までで、先週「新天新地」について学びました。「神が人と共に住み、人が神の民となる」ことによってできる「新天新地」がいかにすばらしいものであるかが語られていました。
後者は、9節から神の都としての新しいエルサレムが語られています。それはどのような宝石でも飾れない輝きと、太陽も月も必要としない光を放つ新しいエルサレムです。10-21には新しいエルサレムの外観が述べられています。7人の御使の一人が「さあ、来なさい。小羊の妻なる花嫁を見せてあげよう」(9)と言って、ヨハネを大きな山に連れて行き、聖都エルサレムの都を見せました。(10)その都は「最高の宝石のようであり、・・高い大きな城壁と、12の門があり、それらの門には12の天使がいて名が刻みつけてあった」とあります。「イスラエルの子らの12部族」とは、12部族で代表される旧約の民を指しています。また「小羊の12使徒」とは神の小羊、イエス・キリストの12弟子で代表される新約の民、つまり教会のことです。新しいエルサレムは旧約の民と新約の民で構成されています。しかも都の城壁の12の土台には、小羊の12使徒の名が記されていました。 次に、天使は、都と城壁とその門を測りました。「都の土台には、様々な宝石で飾られていた」(19)。城壁の土台が12あって、それぞれが宝石で飾られています。それは12使途たちの信仰であって、教会の土台です。主イエスがペトロに「私はこの岩の上に私の教会を建てよう。黄泉の力もそれにうち勝つことはできない」(マタイ16:16)と言われた言葉が思い起こされます。ここでペテロは使徒を代表し、キリストによって罪を贖われた神の民と教会を指しています。使徒たちの信仰が土台になり、それが宝石のように輝いているということでしょう。私たちの信仰から出るよい行いは宝石にもまして輝かしい教会の土台となります。
次にヨハネは、「都の中に神殿を見なかった」(22)とあります。肝心の神殿を見なかったとはどういうことでしょうか。それは、「全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである」(同)。「神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」「それを照らす太陽も月も、必要ではない」のです。キリストが神殿であり、世の光である主の民が神の都がエルサレムを照らしているからもう宝石や明かりは必要ないのです。その様な都エルサレムが約束されているのです。
エルサレムとは、神の平和「エル・シャローム」という意味です。にもかかわらず現実のエルサレムは世界中で最も平和でないところとなっています。観光のエルサレムには金銀宝石で飾られた教会や、神聖なモスクや、神殿シナゴクがあり、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地となっていて、宝石で飾られています。しかしそこが最も汚らしい結果を生み出しています。信仰の都、新しいエルサレムは人の作った都ではなく、神の都です。人の作ったものは、どのように飾り立てたとしても神の都に取って代わることはできません。かえってひどい矛盾を作り出すものです。
すばらしい人格を持ったクリスチャンに触れたりすると、ああ自分もクリスチャンでよかったなあと思います。でもその反対に、それでも牧師かと思われるような現実に出会うこと、「あれは偽物です」と言って納得しようとします。しかし簡単にそうは言えません。エルサレムがそうであるように、私たちの現実はいいところもあるけれど、恥ずかしくて顔が上げられないようなものも持っているのです。それが実像でしょう。聖書はそれを否定しません。その様なエルサレムからは逃げ出したくなるのです。復活の主が弟子たちに言い残された言葉は「都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)でした。恐れと迷いの中にある弟子たちは、ただこの上よりの約束を信じて都にとどまったのです。そこに輝きと力とに満ちた聖霊が下るのです。そこは聖所も要らない、宝石も要らない、太陽も月も要らない。主が輝かしてくださるのです。新しいエルサレムはそこに輝き、そこに現れます。信仰とはその新しいエルサレムに生きることです。
2014/11/9 新しいエルサレム