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2014年10月12日 聖霊降臨節第19主日
「 王の王 」
榎本 栄次 牧師
ヨハネの黙示録 19章
私たちには二つの世界と二つの時があります。一つは私の世界と私の時です。それは目に見える分かり易い世界です。いいことが在れば祝福であり、辛いことや苦しいことがあれば呪いの時です。そこでは、私にとって都合のいい神が神であり、都合の悪いことをもたらす神は悪魔となります。
もう一つは神の世界と神の時です。それは見えない分かりにくい世界で、永遠の真理であり、私たちの存在をあらしめている根源のものです。そこから私と私の時を見るのです。たとえ自分が十字架につくようなことがあっても、神さまの御心であるならば、よしとする世界です。主が十字架にかかられる前に、ゲッセマネの園で「父よ、できることならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りにではなく御心のままに」(マタイ26:39)と祈られました。これが神の時に生きることです。信仰は自分の世界から出て神の世界と神の時に生きることです。この切り替えを悔い改めといいます。そこでこそ人は自分らしくなることができます。
今日の聖書の箇所は、キリストの勝利を賛美したものであり、キリスト者の信仰告白でもあります。ヘンデルのメサイアのクライマックスであるハレルヤコーラスの舞台です。ローマで殉教していった人たちがその苦しみの中で、「ハレルヤ」と神を賛美できたのはどうしてでしょうか。この人は、目には見えない神の世界とその時に生かされていました。彼に特別の精神力や信心があったわけではありません。キリストを見上げてそれに繋がったからです。それは神の世界の勝利です。どんなに苦しいことにも耐えられる現実に触れ、その力を頂いて勝利していたのでした。自分の世界の延長線上にはないことです。イエス・キリストによる救いの時です。
「救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの」(1)と言っています。これは自分たちの力や努力で勝ち取ったものではない、キリストの一方的な憐れみによるものです。信仰が倫理や道徳と根本的に違うのはそこです。信仰による大きな勝利が得られたときには「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れた偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるためです」(コリントⅡ4:7)という告白になります。カナの婚礼において、主イエスが水をぶどう酒に変えられた奇跡(ヨハネ2)に通じる真理です。私たちは何をもって喜びとするでしょうか。自分が王になることでしょうか。それは的はずれです。そんなことは、せいぜいどこかからぶどう酒らしい物を少し持ってくるだけです。一時的な誤魔化しにすぎません。神さまの御心がこの地上に実現すること、そのために私が用いられることが喜びになるのです。
「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。・・この麻の衣とは聖なる者たちの正しい行いである」(8)と言っています。さてこの「正しい」は単に倫理的な意味ではなく、神の世界、神の時に適った行いということです。自分を基準にせず、神さまの宣教を中心に考えたことです。
私たちがこの世に生きている以上、キリスト者であろうとなかろうと、寒い冬も来るし、暑い夏もやってきます。しかし私たちはその世界だけでは捕らえられないもう一つの世界を知らされるのです。それはキリストに繋がる世界です。「小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」(9)私たちがどのようにつまらない者であってもキリストに繋がっているときに、「輝く清い麻の着物を着せられ」婚宴に招かれるのです。そのために主は王の姿をとらずに小羊の姿をとられました。その方こそ王の王でいらせられます。
私は今、キリスト者であるのは、他の宗教をすべて知り尽くしこれが一番として選んでキリスト教徒になっているのではありません。また皆様にそのような確証を証明することもできません。ただキリストにより、このような者が捕らえられているということです。その方により頼み、つなげられている自分を証しするのです。自分も相手をも受け止められるのです。
2014/10/12 王の王