今週の説教要旨

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2014年10月5日                                   聖霊降臨節第18主日   

「大バビロンの滅亡」 

榎本 栄次 牧師

ヨハネの黙示録  18章9-24節

 中世の修道士たちは「メメント・モリ」という挨拶を交わしたそうです。それは「汝 死を覚えよ」という意味です。これは古代ローマの将軍がいつ死ぬか分からないから、今を楽しもうという意味で使われたのですが、後に修道士たちは、逆の意味で言うようになりました。「今どんなに強くてもいずれ死の時を迎えねばならない。だから今、罪から離れて永遠の存在である義の神に結びついて生きよう」という合い言葉にしたのです。終わりのあることを知ることが、今の生活に大切であと戒め合ったのでしょう。
信仰は自分の世界から神の世界に基軸を移すことです。信仰が自分の世界をより確実にすることであるならば、絶望に終わります。もちろん私たちはこの人生が少しでも長く、豊かで平和なものであるようにと願い祈るものです。しかし、それを最終目的にはしない。一切を支配しておられる方に人生の基軸を据えて祈るのです。これこそは、と頼りにしているものが全て失われる時が必ずやってきます。その時はどうするのでしょうか。基軸を自分から神に移し身を委ね生きるのです。
信仰はその最後の時のためではありません。そうなる前の時、すなわち現在を生きるためです。今を生きるために、本当に頼るべきものを見つけることです。小さなことを失うことは、今それに気づくためです。
 ヨハネの黙示録18章には、終末において最後のクライマックスの場面が表現されています。すなわち、大バビロン(ローマ帝国)の崩壊です。これまで栄華と権力の極みを誇り、金と権力に頼り、罪にまみれつつ、神を恐れず、人々から恐れられていた女王が裁きの座に立たされ滅びるときがやってくる。「わたしは女王の座についており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない」(7)と豪語していた大バビロンですが、必ず滅びる時が来る。その恩恵を受けて、共にみだらな行いをしていた人たちも同様に、悲しみの声を上げるときが来るというのです。全てが奪われ、誰も見向きもしなくなる、栄華が崩れ去るときが来る。
今さえ楽しければいい、後のことは知らないというのは、現在を大切にしているようで、そうではない。今というのは未来と繋がって今なのです。ぶつ切りの今には希望がありません。逆にたとえ今、血を流して迫害苦しみ耐えるような日々であったとしても、そのいのちが永遠につながっている限り、祝福と喜びに満たされます。
 「不幸だ、不幸だ、大いなる都、強大な都バビロン、お前はひとときの間に裁かれた」(10〕この世で絶対と思っていたものが崩れ去る。世界の裁判官、検察官のように思っていたものが、裁かれる場に立たされるようになる。その時が来ることを知りながら、今、永遠のものに結びつくことが求められます。
恐怖政治のただ中で、聖書は「大バビロンは滅んだ」と宣言します。どんなに偉大な者もそれは神ではない。主なる神こそが、この地上も天も全てを支配しておられる。それに結びつくことが祝福です。「ローマは一日にして成らず」と言われた大きな存在であったローマ帝国ですが、世界の舞台から消えました。「彼女とみだらなことをし、ぜいたくに暮らした地上の王たち」も「地の商人たち」も大バビロンの傘下で守られていた同じ穴のむじなとして裁かれます。「金、銀、宝石、真珠、麻の布、紫の布、絹地、赤い布、あらゆる香ばしい木と象牙細工・・・」このような高価な商品を扱って商売していた商人たちも嘆き悲しむのです。
 ところが、このような悲しみを見て、「天よ、この都のゆえに喜べ」(20)と言う。神さまが敵を討ってくださったからでしょうか。そうではありません。女王に関わる者とキリスト者が対局にいるのではなく、私たちも彼らの仲間であり、この裁きの外にあるのではないのです。神の裁きはキリスト者と無縁ではありません。そこで喜ぶのは、主に基軸をかえる時、今起きるのです。


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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。