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2014年9月14日 聖霊降臨節第15主日
「命の書に名を記された者」
榎本 栄次 牧師
ヨハネの黙示録 17章
本日の礼拝では高齢者祝福式をします。後期高齢者と呼ばれる75歳以上の方々のことを「光輝高麗者」とお呼びし、その長寿を祝し尊敬したいと思います。長寿は祝福の象徴であり、大変光輝であり、麗しいことです。それがなぜ祝福であるかというと、その人生が主につながることにあります。永遠の命はこの命が永遠に長く生きることではなく、「命の書に名の記された者」とされることこそ光輝高麗であります。それを共に喜びましょう。
黙示録17章には大淫婦である大バビロンとそれに支配される獣たちについて述べられています。彼らは「金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた」(4)。彼らは「聖なる者たちの血と、イエスの証人たち血に酔いしれていた」(6)のでした。「この女を見て驚いた」とあります。これは単にびっくりしたという意味よりも、恐怖に驚いた。神の力は永遠であるという信仰が揺らいだということです。しかしそれらを恐れることはない。彼らも一時的であり、やがて幌知る存在であるというのがこの章の主旨です。
ヨハネ黙示録は「すぐにも起こるべきこと」(1:1)として神の審判について述べています。その直接のターゲットはローマですが、ローマを越えて人間の歴史の中に働く悪魔だと言ってもいいでしょう。直接ローマという言葉は一度も使わず、滅んでしまったバビロンの名を使っています。
彼らは驚くべき存在であり、「以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが滅びてしまう」(8)ものです。この獣がやがて来るのを見て驚くだろうが、「ここに知恵が必要である」とあります。その秘められて知恵とは何でしょうか。それは永遠ではないということです。「地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者は」この獣の再来を見て驚くだろう。しかし、「命の書に名の記されている」キリスト者は驚くことはない、神の御支配の下にあるということ。それを知ることが知恵であります。
カールバルトという神学者「老人の知恵」とは、古い昔の知恵とか経験を語ることではない。年をとっていろいろなことができなくなり、希望が断たれる。そのときに見えてくるものがある。神の側から来る真理に気づくこと、それが老人の知恵である、と言っています。この地上で、どんなに大きな業をなしたとしても、それはやがて滅んでしまうもの、消え失せるものです。「草は枯れ花はしぼむ。しかし神の言葉は永遠に変わることがない」。
今日の拝金主義はお金を神としたことへの大きな災いと言えるでしょう。アシュラム運動の創始者であるスタンレージョーンズはアメリカでこの国の偶像はこれですと、ドル紙幣をポケットから出して示したそうです。
ヨシュアは出エジプトを終えてイスラエルの民が約束の国カナンに入る前、人々を招集して「もしあなたがたが主に仕えることをよしとしないならば、偶像の神々でもよい、あなた方が仕える神を今日選びなさい。ただしわたしとわたしの家は主に仕えます」と言いました。その時、民は「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、わたしは決していたしません」と言って、異なる神々を捨てて主に仕えることを決意しました。(ヨシュア記24:14以下)今日、私たちもこの決意をするものでなければなりません。キリスト者はそのために召されているのです。
1930年代からドイツに起こったナチスの恐怖政治の元で、ドイツ告白教会を中心に「バルメン宣言」が出されました。それは「神の唯一のみ言葉の他に、またそれに並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認させるとか、承認しなければならないという誤った教えを、私たちは退ける。」というものです。これはナチスにとって大きな脅威となりました。
「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、忠実な者たちもまた、勝利を収める」(14)とあります。「命の書に名が記された者」のことです。私たちは闇の世にあって、この神と共に生きる者とされねばなりません。
2014/9/14 命の書に名を記された者