今週の説教要旨

HOME   >  今週の説教要旨

2014年8月31日               聖霊降臨節第13主日   

「御言葉の勝利」 

榎本 栄次 牧師

ヨハネの黙示録  15章 1-8節

 聖書でいう祝福とは、何も困ったことが起きないことではありません。神さまが共にいてくださることを祝福といいます。創世記のヨセフ物語はドラマチックです。ヤコブの11番目の子どもであるヨセフは、幼くして大変聡明であり、父からの寵愛を一身に受けていました。そのために兄たちから妬まれました。あるひ兄たちの陰謀でエジプトの商人に売り飛ばされました。そこで奴隷とされ、誘惑や投獄という苦しい目に遭いました。しかしヨセフはどこに行っても守られ、祝福を受けたのです。そのことで反って人々の信頼を得、ついにエジプトの総理大臣にまでなります。そのことを聖書は「主が共におられたから」と書いています。
 ヨハネ黙示録15章は、この世の罪に対して神の激しい怒りが頂点に達する(1)ことと、その前に、天上における明るく輝かしい勝利の情景が描かれています。地上で悪人が災害によって苦しみ滅びて行くとき、天上では救いの喜びが満ちあふれ、讃美の歌声が聞こえるのです。(2節以下)光と闇、このコントラストはヨハネ独特の手法で、救いのすばらしさと滅びの惨めさが描かれています。厳しい裁きと大きな喜びが平行して描かれているところにその特徴があります。
 果たして私たちはどこにいるのでしょうか。讃美と喜びの場でしょうか。それとも神の怒りの対象の場でしょうか。おそらく後者に違いありません。津波のように押し寄せてくる神の怒りから誰が逃れられるのでしょうか。「七人の天使の七つの災いが終わるまで、誰も神殿に入ることができなかった」(8)とあるように、そのままでは誰も逃れることはできません。
出エジプトの前夜、全エジプトを神の怒りの霊が包みました。その時、羊の血を玄関に塗っていたイスラエル人は神の怒りから逃れることができました。これは主の憐れみによるものです。そして今、私たちはキリストの贖いによって救いに招かれています。キリストの小羊の血が私たちを救ってくれるのです。「ガラスの海のようなもの」は神の御座を指し、そこで「獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た」のです。(2)ローマ帝国と恐るべきネロス・カイロスの権威です。皇帝礼拝の強要に屈しないで、信仰を貫いた人たちの勝利です。そのために殉教していった人たちは少なくありませんでした。しかし彼らには圧力には屈せず、この世と妥協せず、信仰を貫く強さがありました。彼等にはその時に与えられていた力があったのです。
御言葉の勝利です。天上の勝利を見ていたのでした。「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(マタイ13:14)ようなものです。
 出エジプトしたイスラエルの民は、神の導きで紅海を渡り、御言葉の勝利を体験しました。そして神の民である教会は、小羊の贖いによってカイロスの迫害に耐えたのです。最後の勝利は地上では現実のものとはなっていませんが、究極的な真実の世界である天上ではすでに完成され祝されているのです。それ故に私たちは前もってこの地上で祝うことができるのです。私たちの礼拝は天上の礼拝に参加している喜びの時です。
 祝宴の歌と恐ろしい裁きの場面とが並べられているのは、そこに神が共にいるかどうかで分かれることを示します。キリスト者が困難のただ中にあっても、主が共にいてくださるからそこでも、宴が開かれるのです。キリストにある御言葉の勝利です。それ故に耐えられるのです。
 今私たちは黙示録の時代のような迫害はありません。しかし現実社会は、闇の力が私たちに大きく覆い被さり、神ならぬものが神になっています。世の力、拝金主義に包まれ、人間性が失われ、愛や真理が破壊される時代です。その様なときにも、そこに主が共にいてくださり、み言葉が勝利し、支配されている讃美の時なのです。それを仰ぎ主を讃美しましょう。


音声をお聞きいただけます

2014/8/31 御言葉の勝利

日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
厳かな雰囲気と温かみのある空間で、清々しい祈りの時間をお持ちいただけます。
小さなお子様づれでも安心してご参加ください。
また、信仰のこと、心に抱えている悩みごとなど相談したいことがございましたらご遠慮なくおいで下さい。
いつでも、皆さまのお越しを、心から歓迎いたします。
世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。