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2014年8月24日 聖霊降臨節第12主日
「キリストのうちに留まる」
松田 央 牧師
ヨハネによる福音書 15章 1-11節
今日のテキストの主題が9節に書かれています。「わたしの愛にとどまりなさい」と書かれていますが、キリストの愛に留まるということは、キリスト御自身のうちに留まるということです。ここでキリストはすべての人間のみならず、すべての世界を包み込むような巨大な命として表現されています。したがって、キリストの愛に留まるということは、キリストという大きな命のうちに包まれるということを意味します。キリストこそあらゆる命の源です。私たちは毎日の生活において神様を命の源にしているでしょうか。何かほかのものを命の源にしていないでしょうか。この問いをいつも繰り返し思い起こすことが必要です。
まことのぶどうの木とは、旧約聖書で書かれているように、神の期待に応えて、豊かな実を結ぶ存在を意味しています。したがって、キリストはまことのぶどうの木であります。そして私たちはぶどうの枝であります。ここで誤解してはならないことがあります。キリストは単なるぶどうの幹ではなく、ぶどうの木全体であるということです。つまり、キリストと私たちは、本来別々の存在ではないのです。キリスト者の本来の姿は、単独で成立するものではなく、キリストという大きなぶどうの木の一部として成立しているのです。
キリスト者の命は、単独で成立するものではなく、キリストという大きなぶどうの木の一部として成立しているのです。新約聖書では自我の存在そのものは否定されていません。しかし、少なくとも自我は固定的な実体として存在しているわけではありません。鴨長明の『方丈記』の冒頭には「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかた(水の泡)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためし例なし」と書かれています。私たちの自我や心も同様であり、意識の流れのようなものです。何か同じ実体が存在しているわけではないのです。意識の流れですから、昨日の私、今日の私、明日の私は各々異なっています。したがって、心を「入れ替えて」、新しい人生を歩むということも可能になるのです。
11節では「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」と書かれています。イエス様の喜びとは何でしょうか。イエス様は自分自身のための喜ぶのではなく、私たちの喜びを喜びとされるのです。イエス様は私たち自身が心の底から喜びの気持ちで満たされることを望んでいらっしゃいます。
山下りんは日本最初のイコンの作家であり、ギリシア正教の信者です。イコンは鑑賞のための芸術作品ではなく、礼拝のために用いられる画像であります。地球のみならず、宇宙全体がキリストの命と愛によって包まれているのです。
私たちの自我は、キリストという大きな命の一部にすぎません。そして、私たちはキリストという一つの命を分け合っているのです。そういうわけで、私たちはお互いに命のつながりを持っているのです。私たちがお互いに愛し合うということは、そのような命のつながりを大切にするということです。私たちは決して孤独ではありません。いつもキリストの体の一部であることを思い起こしながら、信仰生活を続けましょう。
2014/8/24 キリストのうちに留まる