今週の説教要旨

HOME   >  今週の説教要旨

2014年7月20日 聖霊降臨節第7主日   

「二人の証人」 

榎本 栄次 牧師

ヨハネの黙示録 11章

 キリスト者の課題は何かと問われるならば「証し」と答えます。証しというのはイエス・キリストを証しすることです。何かを求められたときに、キリストを指し示すことです。いわば矢印になることです。矢印にとって大事なことは指し示す方向です。矢印の素材ではありません。矢印が金でできているか、銀か銅か木か紙かと、何でできているかは第一義的なことではありません。その矢印がどこを指しているかということこそ大切です。自分がキリストになることではありません。
 ここをよく誤解するのです。私はこんなに立派なクリスチャンですと必死になって頑張るのですが、それを認めてくれなかったら腹を立てたり、愚痴を言ったりしなければならなります。キリスト者は、そんなに立派にならなくてもいい。キリストを示せばいいのですから。思い切ってやりなさい。最後は私が責任をとるからと言ってくれる主人がいてくださるのですから。
 他の人と比べてどれだけ立派であるかということに関心を向ける必要はありません。ところが多くの場合、キリストを指し示すことよりも自分を指し示すことの方が大切になってしまっていることがしばしばです。どんなに自分を立派に見せようとしてもそれは意味のない死の世界です。大きな式典をしたり記念碑を建てたりしてもそれは飾り物に過ぎません。キリストにある者はただキリストの証人になればいいのです。それならば証人になるとはどうすることでしょうか。
 前章では天使から小さな巻物を取ってそれを食べろと言われました。食べると言うことは神のみ言葉に具体的に従うことです。それを食べると、口には蜜のように甘かったが、腹には苦かったのでした。キリスト者の現実です。天使はそれを食べた人に「多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて預言しなければならない」という使命が与えられました。預言とは証人になることです。今置かれたところで神の命令にハイと答え、それを公にすることです。
 当時のキリスト教会はとても小さくて、弱い立場にありました。ローマ帝国を相手に恐ろしい迫害の手に怯えていました。その様な状況に置かれながらも、彼らは逃げ回っていたのではなく、多くの民族、国民、言葉の違う民、また王たちとあらゆる人たちに福音を宣べ伝えていたのでした。神は彼らに対して、「立って神の神殿と祭壇とを測り、またそこで礼拝している者たちを数えよ」(1)と言います。実際には彼らには会堂もなく、神殿と言われるような物はなかったし、仲間もごくわずかでした。神殿の祭壇というのは、神さまが今整えてくれている物です。実際には信徒の家の二階であったり、洞穴であったりしました。彼らの中にいたのは二人の証人でした。たったの二人でありながら、彼らの証言が神の力を示していました。二人しかではなく、二人いたのです。「2人または3人がわたしの名によって集まるところに、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)。そこで神の恵みを数えるのです。小さくても測ることが重要です。実際に見える形は小さくても神の御心を通してみるときそこは神殿であり、神の広い祭壇であったのです。
 次に「神殿の外はそのままにしておけ。測ってはならない」(2)と言います。外には恐ろしい力が渦巻いているけれどもそれを測るなというのです。現実社会で、神の言葉に従おうとしたとき、余りにも相手の力が大きく見え、神が小さく見えてしまうことがあります。その姿勢は、客観的であたかも冷静なように見えますが、それは神の祝福を見ないときの判断です。状況をしっかりと捉えることは必要ですが、その上で神の言葉に聞いていくのです。そこでは敵の大きさを測る必要はありません。それは結局正確ではないのです。小さなものが神の力に目を向けるとき、神の奇跡が起こるのです。
 信仰とは自分がキリストになることではなく、キリストの証人になることです。私たちの小さな死ぬべき体を用いて神のなさることを見ることです。それを見ながら証人として立つことがキリスト者に求められています。人々はそれを見て神を崇めるようになるのです。



音声をお聞きいただけます

2014/7/20 二人の証人

日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
厳かな雰囲気と温かみのある空間で、清々しい祈りの時間をお持ちいただけます。
小さなお子様づれでも安心してご参加ください。
また、信仰のこと、心に抱えている悩みごとなど相談したいことがございましたらご遠慮なくおいで下さい。
いつでも、皆さまのお越しを、心から歓迎いたします。
世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。